なぜ人々はいまだに量を重視するのか
高2 あきしお(akisio)
2026年9月4日
芸術スポーツとは何か知っているだろうか。芸術スポーツとは、速さや力強さなどを競うスポーツではなく、シンクロナイズドスイミングなどのように、協調性や美しさを競うスポーツである。このようなスポーツの登場は、スポーツが「記録や生産力を競うもの」から「美しさや感動を楽しむもの」へと変化していることを表している。このようなスポーツが生まれたことは、人々の意識が芸術性へと移行し、生産第一主義から消費第一主義へと移行している証ではないだろうか。このような社会になり、機械や技術の発展に伴って、質を担保しながら必要な量を生産するという夢は実現できるようになった。しかしながら、形骸化し、量のみを担保するような考え方が社会にいまだに残っていることは問題である。では、なぜ私たちはいまだに量を重視するのだろうか。私は、その理由は二つあると考える。
一つ目の理由は、私たちが時代や知識の変化に合わせて考え方を変えようとせず、世代が変わっても、前の世代から受け継いだ考えに縛られ、古い価値観に固執しているからではないだろうか。数年の間にも、技術や社会の考え方は着々と変化している。それにもかかわらず、昔から続いているというだけで、その考え方や習慣を変えようとしないことがある。例えば、私が現在通っている高校には、応援練習というものがある。内容は、上級生の常幹が下級生を厳しく指導しながら、長野高校の伝統や校歌などを覚えさせるという、現代の価値観からすると問題のある行事である。この行事では、数十年前から反対運動が行われたり、内容を変えようとする試みがなされたりしてきた。しかし、それでも大きく内容が変わることなく、現在まで続いている。現代の考え方では到底許容しにくいものであっても、「伝統だから」という理由によって見直されることなく、時代だけが進んでいるのである。
二つ目の理由は、量は「成果」として分かりやすいからではないだろうか。質についても、厚みや誤差率など、数値によって測ることができるものはある。しかし、芸術性や会社・社会への貢献度といったものは、単純に数値化することが難しく、どうしても主観が入り込んでしまう。それに対して、量は数を計測するだけで評価できるため、「成果」としての判定基準が明確である。 私たちの身の回りを見てみてもそれらは顕著に表れている。食べログの星の数だったり、テストの点数、様々なもので点数がつけられるようになってしまっている。しかしながら、それらには明確な比較対象があったりする。星の数も相対的な評価で差がつけられるようになっている。しかし、芸術はどうだろうか。もちろん、芸術にも賞や評価は存在する。しかし、作品のオリジナリティや美しさ、そこから生まれる感動などは、誰にとっても共通する一つの尺度で測ることが難しい。同じ作品を見ても、人によって感じ方や評価が異なるからである。そのため、芸術のように「数字では表しにくいもの」は、量によって評価する場合と比べて、明確な優劣をつけにくい。だからこそ私たちは、無意識のうちに、評価しやすく比較もしやすい「量」を成果として重視してしまうのではないだろうか。
もちろん、「量を重視することにも意味がある」という反論はあるだろう。実際、物を大量に生産することで多くの人に安く商品を届けられたり、テストの点数のように数値化することで公平に評価できたりするなど、量には明確な利点がある。量を測ること自体が悪いわけではない。しかし、問題なのは、量によって測りやすいものだけを「成果」として認め、数値化しにくい質や価値を軽視してしまうことである。技術が発展した現在では、必要な量を生産することだけでなく、その中にどれだけの価値や質を生み出せるかが、より重要になっているのではないだろうか。