何でもよく知っていて(感)

   中2 あかそよ(akasoyo)  2026年10月2日

  何でもよく知っていていろいろなことを話す人がいるが、そのような人はたいていが何かに掲載されたことを羅列しているだけ、つまり情報なのだ。自分で吟味したわけでなければ、自分で収集したわけでもない。ただ右から左へと流しているだけなのだ。そして、詳しいことは何も知らない。だから質問すると答えられない。要は受け売りしているだけなのだ。受け売りしているだけだから人生経験に照らしたうえでの知恵になっていない。ただの知識なのだ。知識はないが、知恵はあるという人や、その逆の人もいる。知恵が歩かないかの違いは、一に物を考えているか否かの問題ではないか。「学校とは一点から一点への最長距離を教えるところであると、私は言いたい。」というジャン・ギットンという哲学、神学者がいた。学校の先生が子供に教えたことの中で子供がいつまでも覚えているのはたいてい知恵なのである。

 自分で物事を考えることは大事だ。僕の小学校の頃の5、6年生の頃の担任の先生は算数が得意で、算数の時間にはいつもなぜこれはこうなるのかといったような授業をしていた。三角形や長方形の面積を求める公式はなぜこうなるのかといって調べたり、何もないところから円周率を導き出したりといったことをしていた。表面上の事だけではなく、奥の事も教えてくれたのでその授業はとても分かりやすかった。また、旅人算や鶴亀算は全て比例がもとになっているので比例さえ覚えておけばいいと言っていたので比例しか覚えなかったら、それだけでどんな問題も解くことができた。その理屈は自分でやっているのでもちろんわかる。理屈が考えられるのでその関係の事ではめったに迷うことがなくなった。自分で物事を考えるのは大事だ。

 しかし、それを自分で考えるための知識も必要だ。三枚のお札という昔話がある。小僧が山姥がいる山へ栗拾いに行ったら案の定山姥と出会い、和尚からもらった札で便所で自分の代わりに返事をさせたり、川や火を出して助かるというような話である。これは、和尚が札があると大河や火の海などを出すことができるということを知識として持っていたから小僧は生きて帰ることができたのだ。和尚が知識を持っていなかったら小僧は山姥に食べられていただろう。そして、小僧も川や火を出したら山姥もすぐには追ってこれないということを知識として持っていたから助かったのだ。知識があることも大切なのだ。

 確かに、知恵も知識もどちらも大切だが「知識がはしごを作ったのではなく、二階に上がりたいという熱意がはしごを作ったのだ。」という言葉もあるように、知恵も知識もどちらも大事なのだ。知恵を使うか知識を使うかは問題ではない。問題を解決するということが一番大事なのだ。「知識がはしごを作ったのではなく…」とあるが、はしごに使う木や鉄などは知識がなくては取ったり作ったりできなかったはずだ。それに知恵が合わさってはしごができたというようなことを言っているのだ。この場合も2階に上がることができないという問題を解決できているのでそれでいいのである。終わり良ければ総て良しということわざもあるように知恵や知識を使ったかというのは関係なく、最終目的が達成できていればそれでよいのだ。