強制された価値観にしか思えない

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 近代社会は価値秩序が崩壊し、各部分文化が断片的に自立したものとして据えられている。自己の位置を決定するものは他人との相互関係だけである。他人と均質であること、他人と話題や関心を共有することが存在に相対的な安定をもたらす。 しかしながら一方で、こうした根拠を欠いた表層的な身振りは、それだけでは真の安定や自己の意味づけをもたらすことはない。なぜなら、言うまでもなく自己を意味づけるのは他人との差異でなくてはならないからだ。つまり完全に他人と同質では差異は生まれてこないからである。 

 人々が自己を意味づけられないのは、社会を貫く大きな価値がないことが問題である。

その問題の第一の原因は、急速に情報化が進んだからだ。

私たち現代人は、通信網が備わっていない時代に比べて遥かに多様な情報を多く、素早く手に入れることができるようになった。その反面「フィルターバブル」という言葉が存在するように、自分と似た意見や価値観をもつ情報や人との関係が濃厚になる一方で、異なる考え方の人と繋がることが難化している。帰結として、暗黙な上下関係も存在せず、ただ単に同じ平面上に漂っている無数の孤島が存在する社会構造になったのだ。

第二の要因は、社会全体に大きな価値観があることに対していかがわしく思う風潮があることだ。

こういう風潮が存在するようになったのは、太平洋戦争ごからだと私は思っている。当時の戦時中の日本といえば「欲しがりません勝つまでは」「贅沢は敵」など日本国内が戦争一色にそまっていた。アメリカに戦争で勝つために日本社会全体が老若男女問わず粉骨砕身の思いで働いたにも関わらず、死者約三一〇万人をだし敗戦に終わった。この悲惨な出来事から日本人は、大きな価値観があることに対していかがわしく思うようになったのだと思う。しかし、このような悲惨な出来事が起きた要因は大きな価値観があったからではなく、その価値観の問題点を指摘したりすることができる環境でなかったことであると思っている。

先述のとおり確かに、大きな価値観のもと全員が集まると、その価値観に矛盾を感じた場合、それを矛盾に思っていない大多数の人や権力者にたいして是正することが容易ではないかもしれない。

しかし、強制された価値観ではなく、万人が意志的に大きな価値観というのが必要である。多様化といわれる今日の社会、多様化であるべきという強制された価値観が存在しているように私は思えてならない。過去の教訓をいかした多様化という大きな価値観をつくっていくべきだ。