衰弱したアイデンティティ

   中1 きかれん(kikaren)  2026年9月3日

 自分が誰かということがよくわからなくなるとき、自分の中に本当に自分だけの物、独自のものがあるかどうか確信が持てなくなる。僕らは自分の存在を自分という閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言い方をすると、僕らには「他者の他者」として初めて自分を経験できるというところがある。他者の他者としての自分を意識できない時、ぼくらの自己意識はグラグラ揺れる。あるいはとても希薄になる。そういう時、僕らは皮膚感覚という、あまりにも即物的な境界にこだわり出すのではないのか。

「私は〜ではない」という言葉で自分の特徴を確認するのではなく、他者とかかわり、自分のアイデンティティを見つけ出す方法のほうが良いと思う。

 一つ目の理由は自分では見えない自分を、他人が映してくれるからだ。心理学には「ジョハリの窓」という考え方があり、自分を四つの領域に分けてとらえる。その中には「自分は気づいていないが他人は知っている自分」、いわゆる「盲点の窓」がある。たとえば、自分では当たり前だと思っている行動が、周りの人からは「気配りができる」と評価されていることがある。私たちは他人の言葉や反応を通して初めて、こうした盲点に気づくことができるのだ。「私は〜ではない」と自分の内側だけで考えていても、この窓は開かないのである。私はこのようなことを経験したことがある。私は自分のことを「話がうまい人間ではない」と思い、友達との会話でも聞き役に回ることが多かった。ところがある日、悩みを打ち明けてくれた友人から「あなたに話すと安心する。いつも最後まで聞いてくれるから」と言われた。そのとき私は、短所だと思っていたことが、誰かにとっての長所になっていたのだと気づいた。この気づきは、自分一人で「私は〜ではない」と考えていたら得られなかったものだと思う。

 二つ目の理由は他者への理解と共生につながるからだ。「私は〜ではない」と自分を定義するとき、そこには必ず比べる相手がいる。つまり、自分と違う人を「自分ではないもの」として線を引き、遠ざけてしまいやすいのである。一方、他者とかかわりながら自分を見つけようとすれば、相手との違いは排除するものではなく、自分を知るための手がかりになる。心理学者オールポートの「接触仮説」によれば、異なる集団の人どうしが対等な立場で交流することで、偏見が減っていくという。実際に私も、最初は「自分とは合わない」と思っていたクラスメイトと班活動で一緒になり、話してみると物事を慎重に考える姿勢に感心したことがある。違いを知ることで相手を理解できただけでなく、自分は思い切りのよさが強みなのだと気づくこともできた。このように、他者とのかかわりは自分と相手の両方を大切にする姿勢を育て、多様な人と共に生きていく力につながるのである。

 たしかに、「私は〜ではない」と考えることで、流されたくないものをはっきりさせ、自分の軸を守れるという面もある。しかし、否定によって分かるのは「自分ではないもの」の輪郭だけで、自分が何者かという中身までは分からない。また、一度そう決めつけてしまうと、新しい自分の可能性に気づく機会を失ってしまう。だから私は他者との関係からアイデンティティを確立した方がいいと思う。