季節を感じるということ
中3 あかるら(akarura)
2026年10月1日
「春が来ても、小鳥は鳴かず世界は沈黙に包まれるだろう」。今から約60年も前にレイチェルカーソンが記した書籍『沈黙の春』の有名な一行は、季節の感じられない生活の訪れる未来を物語る。季節感というものは今の日本において、私達が意識しなければ徐々に消えてなくなっていってしまいそうだ。私は季節感のある生き方をしたい。
その方法として第一に、自ら変化を求め楽しむことだ。現代の社会は人間にとっての利便性を重視したもので溢れているが、それは私達にとって本当の満足と言えるのだろうか。例えば、今年の夏休みでの経験が挙げられる。課題が多かったこともあり、部屋に込もりがちだった私だが、夏休みの終盤、母と共に皇居の周辺を散策した。確かに気温は高く、長時間歩いたことによる疲労も感じられたが、何よりも時折吹く秋の気配を感じられる風は心地よく、清々しい充実した時間として印象に残っている。それは常にエアコンの効いた室内で自分に最適化された環境のもと生活する日常とは違い、五感によって本来の季節や風景を実感することができたからであろう。人間は常に変化を求める生き物である。人間が追い求め作り上げてきた人工物の多くは快適な生活をもたらすものの、五感によって季節の変化を感じることを見過ごしてしまいがちであることは確かだ。季節にともなう景観や暮らしの移ろいは変化がもたらす豊かさであり、人生の彩りとなるのではないか。だからこそ季節を感じられる生活は必要なのだ。
第二に、季節ごとの行事を大切にすることだ。なぜなら、行事は私達が季節を最も身近に感じることのできる機会だからだ。幼い頃から、行事は私にとって節目でありながら、季節だけでなく時間の流れを感じる存在である。学校でのイベントや給食、母が行ってくれる装飾などは、何度繰り返しても色褪せることはない。中学生になった今、目まぐるしい日々の中で、季節の行事を一つ一つ意識する機会はなかなかない。しかし、温かい日差しの中咲く桜や、涼しく感じ始めた頃に見上げる満月など、先を急ぐ足を止めて季節の変化や行事を楽しむ機会は私にとって新鮮で生き生きとした貴重な一時になっている。常に追われるように生活する中でも人々が団結し盛り上げる年に一度の行事や祭りは、多くの人々にとっての娯楽でありながら、繋がりの場としても重要ではないか。必要な物事にばかり囲まれている私達にとって、季節の行事とは最も身近でありながら、人生において、なくてはならない余白となっている。
確かに、人間は日々快適な生活を求めてきた。しかし「人間は自然の一部であり、自然から離れては生きられない」というレイチェルカーソンの言葉がある。ボタン一つで思うままに温度を調整し、旬の時期でなくとも店にはいつでも豊富な食品が陳列されている人間にとっての「快適」さを重視する中で、季節を身近に感じる機会が限られるようになった。しかし、地球温暖化や気候変動の影響を受けつつも、日本の四季は今もなお続き、国内外問わず、多くの人々の心を動かす存在となっている。季節の小さな変化を読み取ることは、人間だからこそできることだ。だからこそ、心に余白を持てるよう、季節感のある生き方をしたいと、私は考える。