思いやりの在り方

   中3 あかるら(akarura)  2026年10月2日

 現代において学校教育の果たす役割とは何だろうか。それはルールが成り立つための前提、つまり他者との間に育まれる信頼関係を理解させることである。幼児教育での遊びや習慣は他者の身体に起こることを感じる、想像力を養う練習だったのである。私は他人を思いやる気持ちを大切にしていきたい。

 その方法として第一に、自分の経験を大切にすることだ。なぜなら、自分の体験は相手の立場に立つ想像力へと繋がり、これが思いやりの基となるからだ。例えば中学一年生での経験が挙げられる。受験を経て入学した学校で何よりも苦労したのは人間関係の構築だった。同じ学校に進学した人はおらず、新たな友人作りは思うように進まなかった。成長の過程で友人関係は複雑さを増し、それぞれに合った接し方を模索し私は日々もがいていた。しかしその経験は今に生きている。私の学校では毎年二度、帰国子女を編入生として向かえる。学校生活に慣れない編入生を自身の経験と重ねながら、相手の立場に立った「思いやり」を持って接し彼らと共に学校生活を満喫している。人間は弱さがあるからこそより強くなれるよう成長する生物である。私達は他者になりきることもできなければ、相手の立場に立って想像することも容易ではない。だからこそ、自身の経験をもとに自分ごとにすることで他人を思いやることができるのではないか。

 第二に、お互いを理解し合うことだ。なぜなら、他者を理解しようと努め、思いやりを持つことでできる言動があると考えるからだ。例えば、車椅子バスケットボール体験が挙げられる。以前、元車椅子バスケットボール選手が主催する体験会に参加した。チームに分かれ試合を行ったが、車椅子に乗ること自体が私にとって初めての体験だった。視線の高さや、車椅子を自由に操作する元選手からは感じられなかった車輪を操作し移動する難しさなど、想像との違いに衝撃を受けると同時に、「助け合い」の意味を知る貴重な経験となった。今まで、身体の不自由な方々に対して多少の知識はあったものの、それは机上のものでしかなく、真の「思いやり」に繋がっているのか実感がなかった。車椅子バスケットボール体験は、車椅子での生活者への理解へと繋がる一歩となった。近年、障害者に対する、精神的・社会的な壁を取り払うための心の在り方を問われている。その根底にあるのは相手への理解ではないだろうか。相手の背景を完全に理解することは難しくても、理解しようとするその先に「思いやり」のある行動が始まるのだ。

 確かに、自分自身のために使う時間も時には必要だ。自身のことがままならない中、相手に対する思いやりを持つことは難しいだろう。しかし「あなたが誰かの暗闇を照らすとき、あなた自身の道も照らされる」という言葉がある。人間は生まれてから死ぬまでたった一人で生きていけるわけではない。どんな時も常に誰かと関わり合い、そして支え合いながら生きている。そんな社会生活において他者への思いやりとは、ルールが成り立つ前提であり、それは巡るものである。他者への思いやりは巡り巡って自分に返ってくる。つまり、他者への思いやりは自分への思いやりなのだ。私は、他者も自分も思いやれる気持ちを持ち続けていきたい。