書いた人は高橋陽道 on 98/12/09 19:37:08:
「閉ざされたクラスルーム:教育の荒廃」http://news.jp.msn.com/wr5.asp?id=981207JOGを読んで、思ったことなのですが、教育における平等は、真剣に考えるべき問題だと思います。僕は前述の記事の状態にいて、自分が弱いからかも知れませんが、勉強意欲をなくし、いまだに後遺症を引きずっています。
「Mindshareの基本理念」http://www.linkclub.or.jp/~chami/document10.htmlで、「共有」はあげましたが、「平等」というのはあげていません。なぜなら、私たち(共著者の十倉含め)はちょうどいい競争相手がいたからこそ、成長できたという側面が非常に大きいからです。自分からみて、すごい、と思う人から知識を吸収して、自分も負けないようにがんばるというのは、大事なことではないでしょうか。競争というのは、動機付けにとって大切な要素だと思います。
確かに、教育を受ける権利は、平等であるべきです。法律のことは良く知りませんが、憲法か教育基本法か何かになかったでしょうか。しかし、成績まで平等というのは、納得のいかないことです。この記事の先生達は、平等を単なる横並びだと思ったのではないでしょうか。教育における平等とは、単なる横並びではないはずです。
テストで100点をとった人と10点をとった人も、同じ人間です。そこは平等に扱うべきです。しかし、残念ながら世の中には能力差というものも存在するようです。これは、教育を受ければ受ける程増加します。今までの評価であれば、100点をとった人は10がつき、10点をとった人は、1がつきます。それが普通の高校における、成績評価です。
しかし、僕は今までの「結果」尺度ではなく、「過程」尺度でもみていきたいと思います。そうすると、努力ややる気によって評価されることになります。自分がもし何かに評価をつけるとすれば、「結果」+「過程」/ 2という付け方をするのではないでしょうか。こちらのほうが、本当の意味で平等ではないでしょうか。勉強しないくせにできる人にも、勉強したのにできなかった人にも同じ評価がつくと思うからです。
単純計算で、こうなります。
「勉強しないくせにできる人」
テスト = 80点 = 8
勉強時間 = 60分 = 6
8 + 6 / 2 = 7
「勉強したのにできなかった人」
テスト = 40点 = 4
勉強時間 = 120分 = 12
12 + 4 / 2 = 8
もちろん、単純計算で割り切れる問題ではありません。それは覚悟の上です。
ただし、「やる気」は形に見えないので、評価ができないことはないけれどむずかしいと思います。評価するのが人間である以上、主観が混ざります。やる気などは、アンケートではいくらでもごまかせますが、複雑な心理テストで抽出可能だと思っているのですが。
しかし本題は、評価自身の意味ではないとおもいます。教育場面において、評価というものは動機付けのために使うものではなのでしょうか。学校や塾の成績が悪かったせいでダメになってしまった人を、何人も知っています。そういうことはあってはならないことではないでしょうか?