書いた人は森川林 on 6月 07, 1997 at 09:43:20:
子供の教育の中心になる場所は、学校でも塾でもなく家庭です。
家庭で、しっかりしたしつけをされて、愛情たっぷりに育てられ、豊かな体験と読書をしている子は、学校がどんな学校でもまともに育っていきます。逆に、家庭でしっかり育っていなければ、どんな学校や塾に行っても、子供はまともに育ちません。
「いい学校に入れば、いい教育をしてもらえる」と考えている人も多いと思いますが、そういうことはほとんどないと思います。私立の小学校で、中学・高校まで併設しているところがありますが、成績のいい子は、小学校から入ってきた子よりも、高校受験で入った子や、中学受験で入った子の方に圧倒的に多いのが実態です。学校には、子供を成長させる力はないのです。では、なぜ学校に行くかというと、学校は、家庭では用意できない新しい知識や技術を体系的に提供することができるからです。しかし、その与えられた知識や技術を消化して自分のものにしていくのは、学校の力ではなく、その子自身の力です。そして、その子自身の力は、家庭でのしつけや愛情や読書や体験で育っているのです。
その肝心の家庭で、しつけや愛情の不十分さが目立っているのはなぜでしょうか。
子供たちに、「お母さんはやさしいでしょ」と聞くと、多くの子供たちは「お母さんはこわい」といいます。そして、「お父さんのほうがやさしい」と言います。これは、何を表わしているかというと、「お父さんは、ふだんうちにあまりいないので、たまにいるときはやさしい面だけが見える」、他方、「お母さんは、不在のお父さんの分までがんばるからこわい面が前面に出て見える」ということだと思います。
子供を育てるのに理想の親というものはありません。どの親も、思考錯誤をしながら、なんとかまあ子供が無事に育っているというのが本音だと思います。
人間には、必ず長所の裏側に短所があります。しつけの厳しい親は往々にして、子供に対する愛情のかけ方が不十分になりがちです。優しい親は、往々にしてしつけの面で甘くなりがちです。愛情たっぷりで厳しいしつけもできるというのは、笑いながらおこるというぐらい難しいことです。
ですから、子供は、ひとりの人間によって育てられれば、必ずその人間の長所と短所をそのまま引き受けて育つことになります。
昔の社会では、父親や母親以外に、おじいちゃんやおばあちゃん、さらに、近所のおじさんやおばさんが、子供たちの教育に関わっていました。人間には、どんな短所にも必ずその裏側に長所があります。だらしないけどやさしいおじさんや、こわいけど筋が通っているおばさんなどに囲まれて、子供たちは、その人間の短所の面を緩和しつつ、長所の面を吸収してバランスよく育っていったのだと思います。
今の社会では、多くの家庭で、教育の中心になるのは、父親と母親だと思います。厳父慈母といいう言葉がありますが、お父さんが厳しい役割をしっかり担っていれば、お母さんは優しい役割を十分に果たせるように思います。また、お父さんが子供に、「人生には勉強よりも大事なことがたくさんあるんだぞ」と教えていれば、お母さんは、「今いちばん大事なことはしっかり勉強することなのよ」とはっきり言うことができます。もちろん、この役割は逆でもいいのですが、要は、複数の人間が家庭で子供の教育に関わらなければ、子供はバランスよく育たないということです。
こう考えると、本当の問題は、家庭にではなく、そのような理想の家庭を成立させにくくしている社会にあるような気がしてきます。
ドイツには、日曜日の営業や遠方通勤を制限する法律があるそうです。それは、企業の利益や社会の発展よりも家庭や人間を大切にする思想があるからです。アングロサクソン系の「競争=善」という考えの対極にあるのが、このライン系の考え方で、日本は、ちょうどその中間に位置しているようです。
企業や社会がどんなに発展しても、その一方で家庭が家庭の役割を十分に果たせないまま取り残されているような社会は、いずれいきづまるのではないかと私は思います。今、日本も、会社よりも家庭をという方向に大きく舵を切るべき時期に来ているのだと思います。