描写と説明

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書いた人はnaneさん 99/09/04 06:40:57

 大学生や社会人の書く文章で、ときどき意味がわからない部分に出合うことがあります。「ここ、ちょっとわかりにくいなあ」と言うと、「それは、実はこれこれこういう意味で、こういうこともありああいうこともあるからはっきり言い切らないで、言外の意味をにおわせているんです」などと説明してくれることがあります。
 このはっきりとわかるように説明しないというのは、実は日本の文学のひとつの伝統です。俳句の世界では、説明ではなく描写をするということをよく言います。「古池や蛙とび込む水の音」という句のかわりに、この情景を説明しようとすると「ねえ、ねえ、聞いて。昨日さあ、古い池に行ったらカエルがとび込んでさあ、水の音が聞こえたんだよ」「ふーん、だから、どうしたの?」「は?」という間の抜けた話になってしまいます。
 小学校の作文指導でも、「思ったことを直接書かずに、思ったことがにじみ出てくるような動作や情景を書きなさい」というへんてこりんな指導をすることがよくあります。もちろんこれが、論理的な文章を書くという全体の流れの中の一部として位置づけられていればいいのですが、小学校の作文指導では往々にして、この描写的な表現自体が価値のある目的のように取り扱われてしまうようです。例えば、「私は玉子焼きがうまくできたのでうれしかったです」と書くかわりに「私は玉子焼きを持って、思わず走り出しました」と書きなさいというような指導です。本当に大事なことは、玉子焼きがうまくできたということであって、その喜びを表現するのに走り出したとかころんだとかいうことは実は枝葉のことなのですが、この枝葉の部分が大きくクローズアップされてしまうのです。
 新聞のコラムなどでよく、各界を代表する人がリレーで執筆を担当するという欄があります。そのときによく感じるのは、科学者や経営者で内容のある感銘を受ける文章を書く人が多いということです。このことは、表現を工夫するよりも表現する当の内容を充実させることが第一で、あとはそれをいかにわかりやすく伝えるかということが文章の目標だということを表わしているように思います。


参照URL: http://www.kyoeikasai.co.jp/HD/ny003.htm

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