幸せになる方法
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書いた人は●naneさん 99/11/10 04:49:45
今を去る5年前の1994年。当時は、「95年の衝撃(浅井隆著)」のような、近い将来日本経済をはじめとする世界経済に破局が訪れるという内容の本が共感を持って読まれていました。実際、その後1995年3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こります。
そういう暗い世相を反映していたのかもしれませんが、当時の私のいちばんのテーマは「人間が幸福に生きることは可能か」というものでした。仕事が忙しい最中に、仕事よりも人生観が最重要テーマになってしまうところが困るところですが。
94年の4月からたぶんその年の9月ごろまで、やむをえず仕事をするとき以外は、朝から晩までずっとそのことを考えていたので、ついに考えすぎて頭がはげてしまったほどです。もちろんハゲはやがて治りましたが。(ほんとだってば)。
で、そのときに考えた話を。
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幸福とは、心の持ち方です。山の向こうにあったり遠い未来にあったりするものではなく、今ここで幸福であることが、幸福になるということです。
幸福が、未来の別の場所にあると思い、それに向かって努力をしたり、自分自身や周囲の環境を変革していくことは大切なことです。しかし、そのときに今の自分が不幸であると考えているならば、未来の別の場所に到達しても、幸福は手に入りません。「もっとお金があったら」と思い、実際にお金が手に入れば、「もっと健康だったら」と思い、実際に健康が手に入れば、「もっとスマートだったら」「もっと勇気があれば」「もっと周りの人が優しくしてくれれば」と次々と「もっと」という条件が現われてきます。今この場で、周りの環境の如何にかかわらず幸福にならなければ、幸福にはなれないのです。
しかし、人間は感覚や現象に左右される生き物です。朝起きて天気がよければうれしくなり、雨が降っていれば暗い気持ちになります。ころんでひざをすりむけば痛いと思い、のどが渇いているときに水を飲めばうまいと思います。こういう感覚や現象を超越して「心頭滅却、火もまた涼し」という心境になれる人はごく少数です。
大多数の人は、自分の心をコントロールするときに、外部の手段を必要とします。「友が皆我より偉く見ゆる日」は、「花を買い来て、妻と親しむ(石川啄木)」のように、元気のないときには、花を買ったり、おいしいものを食べたり、旅行に行ったりと外側の手段をきっかけにして元気を回復しようとするのが普通のやり方です。しかし、たとえここで一時的に幸福感を味わったとしても、心そのものが幸福にならなければ、ここでもまた「もっと○○を」という考えが出てきます。
心に最も近い部分で、人間が意識的にコントロールできるものは、物質ではなく言葉です。いつも周りの状態に感謝して、自分の与えられた状態に満足していることができれば、たとえ花を買ったりおいしいものを食べたりしなかったとしてもその人は幸福になれます。感謝や満足という心境そのものを継続することは困難ですが、「ありがとう」や「うれしい」という言葉を実際に口に出して言ってみるということであれば意識的な努力でいくらでも継続できます。
そう考えて、私は、「ありがとう、うれしい」という言葉を朝から晩までずっと口につぶやいてみる実験をしました。もちろん人のいる前でぶつぶつ言っているとアブナイ人になってしまうので、自分ひとりでいるときだけですが。しかし、この実験をしてみると、自分が日々いかに不平不満の中で生きていたかということがわかりました。道を歩いていてゴミが落ちていれば何の気なしに「あっ、きたないなあ」と思い、車を運転していて赤信号になれば何の気なしに「また赤かあ」と思っていたのです。つまり、これまで自分が無意識に生きていると思っていた時間のかなりの部分が、実は無意識ではなく不平不満的な無意識の時間として過ごしていたのだということがわかりました。逆に言えば、幸福な人とは、無意識の時間を幸福的な無意識として過ごしている人ではないかと思ったのです。
無意識の時間は意識の時間とは別の次元で一日24時間続いています。無意識の部分が幸福になるかどうかの目安は、夢に現われてきます。夢は自分の意識でコントロールできないものですから、夢の中で幸福を感じるような場面があれば無意識の世界でも幸福になっているということです。
このように考えて「ありがとう、うれしい」の実験を何万回も繰り返しているうちに(暇だなあ)、いつのまにか努力をしないでも幸福でいられるようになってしまいました(笑)。
しかし、人間は、いったん到達した境地であっても、油断すればまたすぐにもとに戻ってしまうことがあります。仕事や生活でときどき面倒なトラブルが続いたりすると、元気がなくなるときがあります。けれどもそのときでも、回復の方法はもうそれほど難しくはありません。数時間「ありがとう、うれしい」とつぶやいてそういう心境になるように心がけていると、そのうちにそういう心境になってしまいます。
犬を飼っていると、犬のように生きることが人間の生き方の理想に近いように思えることがあります。犬には、過去も未来もありません。過去をふりかえって「もっとあのときああしていれば」と悔やむこともありませんし、未来を思って「もっとこれがこうなれば」と考えることもありません。今ここの一瞬をこの場だけで生きています。おいしいものを食べているときは、犬の存在そのものが「おいしい」です。寒さにふるえているときは、存在そのものが「寒い」です。決して、「このおいしさをもっと持続させよう」とか「あの暖かかったときに戻りたい」などと思うことはありません。だから、どんな不幸な境遇にあっても、不幸な犬というものはいないのです。犬に聞いたわけではないので、本当のことはわかりませんが。
同じように、人間も、周りの境遇の如何にかかわらず幸福に生きることができると思います。もちろんそれは、周りの境遇を変革することと矛盾するものではありません。むしろ、幸福に生きている人が変革にかかわることこそが、変革をより人間的なものにする条件になるのだと思います。
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