学問の新たな開拓分野
[ コメントを読む ] [ コメントを書く ] [ 未来教育フォーラム ]
書いた人は●naneさん 99/11/17 07:14:38
医療、農業、教育、政治の四つの分野は、近代の分析主義的な科学的アプローチによって、一面では大きく発展しましたが、他面では多くの矛盾を抱えるようになった分野です。
分析主義はまず医学の発展に大きく貢献しました。病気は悪い原因がいくつか組み合わさって起こり、健康はよい原因がいくつか組み合わさって手に入ると考えられました。その原因の究明を支えたのは顕微鏡を初めとする人間の目に見えない分野を探る各種の機器でした。風邪を引くのは、風邪のウィルスがいるからであり、鳥目になるのはビタミンAが欠乏しているからである、という説明は、実証的であるがゆえに大きな説得力を持ちました。これに比べると、「風邪を引くのは根性が足りないからだ」などいう説明は、やはり説得力はありません。(笑)
医学と同じように、農業の分野でも、分析主義が大きな成果を上げました。私が高校生のころ、植物を育てるために三大栄養素は、カリウム、窒素、リンで、「カチリと覚えればいい」と教わりました。化学肥料は、これらの成分の配分割合を植物の種類と生育時期に合わせて最適なものに調整するというかたちで発展しました。
教育の分野でも、分析主義は進みました。江戸時代の教育は、読み書き算盤というおおまかな枠で、四書五経を中心に読んだり書いたりすることがその内容でした。近代の教育は、英語、数学、理科、社会と分かれ、更に、理科なら理科の中で物理と化学と生物と地学に分かれ、物理は更に力学と光の屈折とその他もろもろの分野に分かれ、能率よく勉強できるように教科の分類が整いました。しかし、それらの科学が対象とする世界は、もともとトータルなものです。経済学部は文系だから数学は要らないというわけにはいきませんし、生物は好きだけど化学は嫌いということで生物の化学反応を研究することはできません。
政治の分野では、分析主義はあまり目立っていませんが、私たちの身近な政治的な行動の場面では、分析主義的な発想が無意識のうちに出てくることがあります。例えば、「廊下を走ってはいけません」というルールを設定するために、反則切符を作る、廊下に障害物を置く、などという発想です。これは、国のレベルで言えば、法律を作り規制を強化する、税金を取り補助金を支給する、という発想に発展していきます。
さて、これら四つの分野で発展した分析主義は、いま、細分化の限界に近づきつつあります。その一方で、分析とは反対の次元の、主体性を総合的に生かすという方向にいくつかの新しい展望が生まれています。
医学の分野では、ストレスが免疫力を低下させるという主張が現われてきました。逆に言えば活力があれば多くの病気は予防できるし、自然治癒力を活性化させればそれだけで治る病気もある、ということです。今後の医学の発展は、この人間の主体的な力を発揮させるためにはどうすればよいか、という方向に進んでいくと思います。
農業の分野でも、事情は同じです。植物が病気になるのは、病害虫のせいばかりでなく、植物体そのものの活力が低下しているからだということがわかってきました。子持自然恵農場の鶏は、雛のころに厳しい環境に置かれるので、生きる力が旺盛になると言われています。また、ここの鶏はケージに詰め込んで飼われるのではなく、広い環境で育てられています。これまでの農業は、生産効率を高めるためにストレスをためるような育て方をし、そのストレスの結果出てくる障害に対しては農薬や肥料で対処してきました。ドリンク剤を飲みながら辛い仕事でもがんばるという現代社会を戯画化したような発想が農業にもあったのです。
教育の分野も、同じです。学ぶ意欲を育てることの大切さがよく言われますが、子供たちの勉強を見ていても、意欲の大切さというものを痛感します。小学校低学年のうちからコツコツと勉強を積み重ねていくことも確かに大切ですが、小6や中3の受験期に猛烈な集中力を発揮して、それまでコツコツ勉強していた生徒に一挙に追いつき追い越してしまう生徒がいます。苦い薬を飲むようにいやいや長時間勉強するよりも、目標を決めて短時間全力で集中するほうが、吸収力が高くなるのでしょう。また、普通は、「ふう、もう1時間も勉強したから休憩だ」と休憩のことばかり考えて勉強するものですが、勉強に燃えている生徒は、2時間でも3時間でも休みなく勉強していて疲れません。こういう意欲を育てるようなくふうが、これからの教育に求められていると思います。いま、書店に行けば、参考書や問題集などの教材は至れり尽くせりです。塾や家庭教師もよりどりみどりです。ゲームボーイを利用した単語帳や漢字集などおもしろく勉強できるくふうも豊富です。しかし、子供が意欲をもって勉強に取り組めるような大きな仕組みというものがまだできていません。小さな戦術的なところでのくふうは豊富ですが、大きな戦略的なところでの意欲を育てるくふうがまだ生まれていないというのが、教育の分野の現状です。
政治の分野も、同じです。廊下を走らないように障害物を置くというような発想をすれば、その障害物を壊す人がいないように見張る監視人を置くとか、その監視人が不正を働かないように見張るビデオカメラを置くとか、そのカメラが壊されないように警備員が巡回するとかいう具合に、事態はどんどん複雑になってきます。このように複雑化することが真面目な対策と勘違いされることが多いものですが、真の解決策は、主体的な倫理観を育てるということです。公園に行くと、ゴミがよく落ちています。公園の横に車を停めてわざわざ車の中のゴミを捨てていく人もいます。これに対して、掃除をする人を増やすとか、ゴミ箱を増やすとか、ゴミを捨てた人から罰金を取るという発想をすることは根本的な解決につながりません。子供たちが小さいころに、ゴミのないきれいな公園がどんなにすばらしいかということを心をこめて話してあげればいいのです。しかし、現在では、こういう躾は家庭にまかされており、どの時期にどういうことをどのくらい教えればいいかということはまだ科学的に研究されていません。躾というものは、現象が出てから教えても効果がありません。現象が出る前にあらかじめ教えるからこそ効果があります。犬の躾でも、吠えることを覚える前に吠えない躾をすれば無理なく吠えない犬になりますが、吠えることを覚え始めてからではいくら吠えない躾をしても効果はありません。人間の成長に関してはもっと複雑です。この複雑な人間心理の過程を研究する学問分野は、まだほとんどありません。
医療、農業、教育、政治の分野での分析主義的なアプローチは、これからも続くでしょうし、一部には発展も見られるでしょう。しかし、外側からつっかい棒で支えるようなやり方は、いま、つっかい棒が多くなりすぎて、つっかい棒のつっかい棒が必要になるようなかたちで限界に近づいています。教育に関して言えば、学校の勉強では足りないので塾に行き、塾の勉強がよくわからないので家庭教師をつけるというようなやり方です。つっかい棒が多くなればなるほどますます主体的な力は弱まってきます。内側から主体性を育てるようなアプローチがこれからは必要になってきます。そして、その科学的研究はまだ始まったばかりです。現代は、学問のさまざまな分野で、こういう未開拓の荒野が見つかり、その荒野でまだ見たことのない果実が発見されようとしている時期だと思います。
コメントを書く
コメントを読む:
[ コメントを読む ] [ コメントを書く ] [ 未来教育フォーラム ]