競争や賞罰よりも理想を


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書いた人は森川林 on 7月 07, 1997 at 09:38:49:

 競争や賞罰は、勉強の意欲を引き出すきっかけとしてそれなりに有効なものですが、同時に弊害も持っています。それは、競争や賞罰は、それ自体が目的になりがちだということです。つまり、競争に勝つことが目的で勉強の中身はそのための手段ということですから、安易に一夜漬けをしてテストが終わったら忘れるというような短期的な勉強になりやすいということです。また、競争や賞罰は、もともと人間の動物的な面を利用した意欲づけですから、そのことによって次第に、人間を育てるよりも動物を育てるような教育になってくるおそれがあります。
 
 子供たちはかなり小さいころから、理想を理解する力を持っています。これは、ほかの動物にはないことです。犬に「お手」を教えるときに、「お手ができると、将来立派な犬になれるんだよ」といくらしみじみ説明しても、犬は不思議な顔をするだけでしょう。これに対して、子供たちに「勉強をして世の中の多くのことが理解できるようになることはとても楽しいことで、自分にも社会にも役立つとても価値あることなんだよ」と説明すれば、子供たちは小学三年生ぐらいでもそれなりに勉強の意味というものを理解します。こういう人間的な理解は即効性はありませんが、長続きのする意欲を生み出します。
 
 これを逆に、「勉強したらごほうびをあげるからね」「勉強しなかったらおこづかい減らすからね」という動物的なところで意欲を引き出していると、子供たちの意欲はだんだん動物的で刹那的なものになってきます。(もちろん、こういうゲーム的な意欲づけも時には必要ですが、やりすぎるとよくないということです)
 
 この両者の中間で、長期的な利益を目標に意欲を引き出すという方法は、時間がたってからマイナス面が出てくることがあります。「勉強したら、いい大学に入れるんだから」という目標を強調しすぎると、大学に入ったとたんに勉強しなくなるという状態になりがちです。このケースはかなり多いようです。中学受験などでも「受験勉強は大変だけど、合格したらゆっくり遊べるんだから」と言いすぎると、本当に、合格したとたんに遊び始めるようになってしまうことがあります。
 
 中学三年生ぐらいになると、勉強の意味というものを自分なりに考える力がついてきます。それまでの時期に勉強の目的を話せるのは、やはり親しかいないと思います。また、こういう理念的な話は、母親よりも父親のほうが子供たちに訴える力があるようです。



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