宗教と民主主義教育


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書いた人は森川林 on 5月 11, 1997 at 14:54:28:

 ある宗教団体の人が自宅にたずねてきました。
 その宗教団体のパンフレットには、確かにためになることがたくさん書いてあります。
 家族がなかよくくらすためには、世界に本当の平和が訪れるためには、等々。そして、そのことを訴える勧誘員の顔も善意に満ちています。
 しかし、ひっかかるのは、「神様がそういうことを言ったから」というところです。家族が仲よく暮らすことは、神様が言った言わないに限らず大切なことです。
 神様を基準にして考えると、最終的には、神様が言ったかどうかのみずかけ論になってしまいます。それは、更に進んでいけば、神様が「ポアしろ」と言ったから「はい、そうします」というところに行き着くはずです。
 人間の行動には、数多くの間違いがあります。自分がよいと思ったことでも、相手にとってはよくないということがたくさんあるのが社会です。しかし、ここで、神様を基準にして考えるのではなく、自分と相手との対話の中で解決策を考えていくのが民主主義ではないでしょうか。
 宗教団体の善意の笑顔の背後にある非民主主義的な本質を、私たちはしっかり見ていく必要があると思います。
 もちろん、私は、神様はいてもよいと思います。キリストでも釈迦でも天照大神でも、みんないてくれればにぎやかになっていいと思います。しかし、私たちは、神様が言ったからということでなく、自分が「そう思うから」ということでものごとを考えていく必要があると思います。自分が「そう思う」のであれば、「そう思わない他人」との対話もまた成立するからです。
 宗教団体が多数存在し、それに対してまともに対話をすることができず、頭ごなしに否定するか、または頭から信じ込むかのどちらかにしかならないのは、今日の民主主義教育がやはり十分に深く根のついたものになっていないからだと思います。



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