書いた人は森川林 on 98/02/13 21:18:42:
今、講師間のメールで、要約の仕方が話題になっています。その話の本
筋とははずれますが、私は、読解というものに果たして正解があるのかどう
か常々疑問に思っています。
昔、友人と(女の子の)街を歩いていたとき、横浜駅東口のショーウィ
ンドウにしゃれたデザインの広告があって、ふたりで感心してそのあと話を
したのですが、彼女はその広告の背景の色彩に感心していて、私はその広告
の前面の線のかたちに感心していたということがありました。二人で「へえ
ー、それは気がつかなかった」とお互いに言いあった思い出があります。
宮沢賢治の「注文の多い料理店」も、私の妻は、「都会人の自然破壊に対
する批判」が主題だと言うのに対して(そして、それが「正解」なようです
が)、私は、「主体と客体がときに逆転することがある」というのが主題だと
ずっと思っていました。
国語のテストでは正解にならないかもしれませんが、私は、読解とは読
む人の認識を前進させたときが正解なのではないかと思います。同じ本でも、
感銘を受ける箇所は人によって違います。大事なことは、感銘を受けること
自体であって、どこに感銘を受けるかということではないように思います。
悲観的な人は、暗い夜の間に明るい昼がやってくると思うでしょうし、
楽観的な人は、明るい昼の間に夜が配置されている思うでしょう。「人を見
たら泥棒と思え」と考える人もいるでしょうし、「わたる世間に鬼はなし」
と思う人もいるでしょう。「人間は遺伝子の乗り物だ」と言う人もいるし、
「人間の中に遺伝子がある」と言うひともいるでしょう(いくらでも出てき
そうだ)。そのどちらもがその人の人生観を構築する上での真実なのだと思
います。
私は、高校の国語の成績はだいたいいつも80点台でした(トップクラ
スです。念のため)。センター試験のような理詰めの試験では百点も取れる
でしょうが、普通の学校の国語のテストで百点を取るのはどこかおかしいよ
うな気がします。