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詳しい自己紹介


 昭和27日2月10日生。もちろん生まれたときのことは覚えていない。
 母に聞くと、生まれた日の翌朝は、雪が一面に積もっていたらしい。
 当時は、戦後の混乱期の余韻がまだ残っていたころだと思う。

 父は廣一(こういち)。尋常高等小学校を出て、機械にはかなり詳しく、軍隊では機械の仕事を専門にしていた。正義感が強く、弁が立ち、弱い人には優しく、子供や動物をかわいがった。家には、いつも犬やチャボやアヒルがいた。
 母は寿子(ひさこ)。当時には珍しく女学校を出ていたらしい。祖父母に育てられたそうで、いつも優しい穏やかな言葉だけを使う人だった。叱られた経験は一度もない。
 そんな父と母の影響をかなり受けているということが、年をとるにつれてわかってきた。

 父が亡くなる数年前から、よく田舎の岐阜県苗木市に行きたいというので、毎年車で連れていった。運転中の往復9時間ほど、父の昔話をずっと聞くことができた。それが自分のした数少ない親孝行だった気がする。そのとき、自分の祖先の歴史を調べようと思い、ネットでいろいろ調べてまとめた。→中根家の歴史

 小学校は、横浜市立六浦小学校だった。
 小学生時代は、4つ上の兄がスポーツ万能だったために、自分は自然にスポーツが苦手になった(笑)。2つ上の姉もスポーツが得意で徒競走も速かったが、自分だけは運動会ではいつもビリで、クラスでいちばん遅いと言われる柳下君よりも遅かった。
 そのかわりということでもないが、本が好きで、たまに買ってもらった本は何度も繰り返し読んだ。
 勉強は好きではなかったが、知能テストだけはなぜかいつも学年で1番だった。当時は先生がそういうことをみんなの前でよく発表した。成績はいつもクラスで10番ぐらいだったので、先生からはよく、もっと勉強しなきゃだめだと言われた。
 字がすごく下手で、テストのとき、先生から「字が下手だったから×にしておいた」と言われたときがあった。先祖は、岐阜県苗木藩の殿様の手紙を書く祐筆という仕事をしていたらしい。母からは、よく小野道風(おののとうふう)の話を聞かされ、「克明だって練習すればうまくなるんだよ」と言われた。

 中学校は、横浜市立六浦中学校だった。当時、横浜でいちばん荒れた中学だったらしい。確かに、窓ガラスが割れていないクラスは一つもなかった。
 中学生時代は、生き物が好きなので生物部に入った。しかし、みんながあまりに熱心にチョウやトンボが好きなので、自分はみんなのやっていないハチを専門にすることにした。しかし、全然熱心な部員ではなく部室では遊んでばかりいた。
 早生まれというせいもあったが、全体におくてで、中学3年生の秋ごろにやっと最後の乳歯が永久歯に生え変わった。ちょうどそのとき歯のコンクールがあり、全部新しい歯が出たばかりだったので虫歯が一つもなく優勝し、記念品のアルバムをもらった。
 中学の勉強は退屈で、授業中に速記の文字を考えていた。だから、そのころ書いた日記には、今では読めない文字がかなりある。
 中学3年生になると、高校入試があるので、急に勉強に目覚めた。勉強を始めるとどんどん成績が上がり、最後のアチーブメントテストという入試の資料になるテストでは、学年で1番だったらしい。あとで、先生から聞いたという友達に教えてもらった。
 中学3年生から急に身長が伸び、高校生のときには180cmになった。体重は60kg。この身長と体重はその後ずっと変わっていない。背が高く、顔の彫りが深いので、ときどき外国人と間違えられ、大人になってから、「日本語がお上手ですね」と褒められたことが何度かあった。「お国はどちら」と聞かれたこともあった。

 高校は、横浜市立金沢高校で、家から徒歩で15分ぐらいのところだった。
 全部で9クラスあり、入試の成績がよかったせいか理科系選抜クラスに入った。しかし、数学も物理も化学もあまり好きではなく、いちばん好きな教科は、おじいさんの先生が教える政治経済だった。勉強が好きというよりも、そのおじいさんの先生が好きだったのだと思う。
 部活は、兄と相談し、少し運動的なことをした方がいいと思い、サッカー部に入った。体が軽くジャンプすることが苦にならないのでゴールキーパーを専門にやった。たまにすごくいいセービングをすることもあったが、キック力がないのであまり強力なキーパーではなかった。

 高校3年生のときに、1969年の学園紛争があった。自分も世の中の動きに関心を持ち、当時出ていた総合月刊誌の「展望」「自由」「世界」「中央公論」などを毎月読んだ。独特の難解な文章を読んでいると、それまでもよかった国語の成績が更によくなり、いつも学年の上位に貼り出されるようになった。

 大学進学を決める際、当時読んでいた「螢雪時代」という雑誌に、「自分の好きなことをやるのが大事」と書いてあったので、好きなことは何かと考えてみて、花が好きだという結論になった。
 当時は、ちょうど好きな女の子がいて、その子のことを考えながら秋の道を歩いているとき、枯れたススキの中に一群れ咲く紫の野菊を見て感動し、花が好きなのだと思ったのだった。
 当時、国立大で園芸学部があるところは千葉大しかなかったので、進学相談会のときに、「千葉大の園芸学部に行きたい」というと先生方に驚かれたが、本人が行きたいならいいだろうということでそのまま園芸学部が第一志望になった。

 入試のときは、当時読んでいた雑誌の小説に、定期テストではいつも一番に書き上げ教室を出ていく格好いい男の子の話があったので、それを真似して一番先に書き上げて出ようと思った。試験用紙が配られるたびに、すごい勢いで集中して解き、ほとんどの科目で一番早く教室を出た(笑)。

 園芸学部の園芸学科に入ってみると、みんな家が園芸農家だったり、造園業をやっていたり、又は心から花が好きで来ているような子ばかりだった。中でも小黒君は、道端に咲いているどんな植物でも、聞けば全部名前を教えてくれるような少年だった。
 園芸学部の実際の勉強は、花にどういう虫がつくとか何とか、自分にとっては退屈なものだったので、あまり熱心に勉強しなかった。そして、クラスの代議員などをやっているうちに、当時学園紛争の余波が残っていた学生自治会活動に自然に参加するようになった。

 園芸学部のある松戸市は、家から通うには2時間半ぐらいかかるところだったので、学生寮に入った。10畳ぐらいの部屋に上級生と下級生が組みになり、4人ほどで寝泊まりする生活だった。
 千葉大の園芸学部は昔の旧制高校の伝統があり、学生寮の自治活動はきわめてレベルの高いものだった。この学生寮の生活で、民主主義というものを実感として味わったことが、大学生活の一番の成果だったと思う。

 大学3、4年生のころは、園芸学部の自治会の委員長や書記長などをやり、いつも集会やデモや資金集めのダンスパーティーなどをやっていたので、周りのみんなは、「中根は留年する」と思っていたらしいが、成績はどれもよく、楽に4年で卒業できるところだった。
 ところで、就職活動は遅かったので、残っているところはマスコミしかなく、また自分自身も当時人気のあったマスコミに行きたかったので、マスコミの入社試験向けの一般教養と作文の勉強に猛烈に取り組んだ。
 その結果、当時出版社で人気のあったK社を受け、筆記試験は楽々合格したが、面接の集団討論で、「筑波大学法案」というテーマを出されたので、アジ演説のようなことをたっぷり言ったら落とされた。当時は、学生運動の末期状態で内ゲバなどが話題になっていたころだから、社会もそういうことにすごく敏感だった。

 就職に落ちたのを機会にいろいろ考え、大学の4年間、外向けの活動ばかりで頭を使っていないと思ったので、既に書き上げていた卒業論文を出さずに留年することにした。
 留年の1年間は、大学の単位は取っているので行く必要はなく、亀戸の安いアパートを借り、小伝馬町の衣服問屋街の会社のガードマンをした。この1年間は、岩波文庫の青帯、白帯に載っているような古典の難しい本を朝から晩まで読み続けた。そのため、それまで2.0あった視力が急に悪くなった。このとき、サルトルの「存在と無」から始まって、哲学、政治、経済、社会の本を次々と読んだ。ヘーゲルの「精神の現象学」もこのとき読んだ。ちんぷんかんぷんだった。
 しかし、その後、フランスの哲学者イポリットの「ヘーゲル精神現象学の生成と構造」上下巻を読んで、やっとヘーゲル哲学の詳しい読み方を理解した。この本は、ヘーゲル哲学を学ぶ人にはおすすめだと思う。それ以外の日本のいろいろな人が出しているヘーゲル云々という本はどれも、全く表面的なことしか書かれていない。ヘーゲルの思弁哲学は、その後の自分のものの考え方の骨格になった。

 翌年受けた、マスコミの当時一番人気のあったA新聞社は、筆記試験はやはり楽々合格。しかし、下宿暮らしだったので、面接に着ていく服がなくチェックの赤っぽいズボンをはいて、格好よく足を組んで話していたら落とされた。要するに、常識がなかったのだと思う。
 それまで、試験で落ちるという経験がほとんどなかったので、かなりがっかりした。しかし、面接の中で、作文がうまいとわざわざ褒められた。落ちていたから全然意味がなかったが。

 大学は1年留年して卒業し、横浜の実家に帰り、普通の就職をすることにした。23歳だった。
 まだマスコミに未練があり、また将来は自分で独立して仕事をしたいと思っていたが、とりあえず近くの公立小学校の学校事務職員になった。仕事の合間には、やはり難しい本を読み続けた。
 翌年もA新聞社を受け、また面接で落とされた。そこで、これまでせっかく勉強していた作文を生かそうと思い、マスコミ入社を目指す大学4年生を対象に東京の港区で作文教室を始めることにした。
 宣伝は、めぼしい大学の前でチラシを配ったり、リクルートの就職関係の雑誌に4分の1ページほどの広告を出したりした。これが、たぶん日本で初めて作文教室という名前で出された広告だったのではないかと思う。
 作文の書き方については、就職試験のために自分でいろいろ方法を考えていた。毎日1200字の文章を書くことを目標にして、原稿用紙を持って喫茶店に入り、書き上げるまで店を出ないという生活を1年間続けた。書いた文章の漢字を全部辞書で調べ直したので誤字を書くことがなくなった。そのときに、時間配分やスピードや構成の仕方のコツを自分なりにつかんだ。

 大学4年生対象の作文教室はそれなりに成果は上がっていたが、生徒が1年で卒業してしまうし、もっと小さいころから文章を書く練習をした方がいいと思ったので、当時広がりつつあったあるカルチャーセンターで、小学生対象の作文教室を開くことにした。
 そのとき、作文教育に関する本を図書館や書店で見つけるかぎり合計200冊以上読んだと思う。そして、自分なりに作文教育に対する考えがまとまった。「創造性を育てる作文」という方針はこのころ決めた。
 そのカルチャーセンターの教室と前後して、鎌倉市大船、磯子区洋光台、金沢区金沢文庫・金沢八景・並木、港南区港南台・上永谷、武蔵小杉、府中、吉祥寺、横浜白楽、横浜駅前、藤沢と、生徒十数人の小さな通学作文教室を次々と広げた。
 多数の教室を自分ひとりでは指導し切れないので、講師を募集して運営した。最初に募集した講師数人で、作文教室の名前を決めようということになり、横横道路の港南台インターの近くにあったファミールというレストランに集まり、いろいろな案を出し合い、そこで言葉の森という名前を決めた。しかし、作文のニーズというものはもともとかなり薄いので、生徒が大きく増えることはなく、利益もほとんど上がらなかった。

 このころは、学校事務職員の仲間と山に行ったり、研究会を立ち上げたりしてそれなりに人並みの生活はしていたが、未来の展望は見えず最も暗い数年間だった。だから、今でも20代後半の人を見ると、たぶん大変なんだろうなあと自然に思ってしまう。
 このとき親しくさせてもらっていた同じ学校の先生から、のちに自分が独立するときに、「バカでもチョンでも、一つのことをずっと続けていれば、誰にもできないことができるようになる」と妙な励まされ方をした。今でも感謝している。

 そのころは、ワープロやコンピュータがちょうど話題に上り始めた時期だった。それまでは、梅棹忠夫氏の本を読んでカナタイプライターというものを知り、その練習をしていたが、東芝のトスワード10という初期のワープロが出たときそれをすぐに買い、それ以後ずっとワープロやパソコンを使うようになった。
 最初はひらがな入力をしていて、入力もかなり速くなっていたが、あるとき、キャノンのワープロに買い換えるとき、新しい規格のキーボードになったので、もうひらがな入力は使えないというようなことを言われ、その新しい特殊な配列のキーボードの練習を始めた。仕事をしながらの切り替えだったので、しばらく能率が大幅に低下した。販売店の人も、よく知らなかったのだと思う。

 学校の事務職員と作文教室を並行して仕事をしていたが、30歳になるまでに結婚して独立しようと考えていた。結婚は、こんなことを書いては何だが、誰としてもうまく行くと思っていたので、結婚仲介業者に頼もうと思っていた。
 なぜ独立しようと考えていたかというと、自分をよりよく成長させるためにどういうことをすればいいかと考えて、経営者になることが人間を成長させるために最も役立つと思ったからだ。
 そのため、船井幸雄さんの本をよく読んだ。最初に読んだのは「船井流競争法」だった。船井さんは、その後、経営に限らずさまざまな分野に関心を広げ、隠れた才能を持つ多くの人を世の中に紹介した。
 私も、船井さんの著書で紹介されている本はよく読み、自分の関心の幅を広げた。社会人になってからの知的な分野は、船井さんの著書の紹介によることが大きい。

 船井さんの紹介で読むようになった人は、思い出すだけでも、次のように多い。青木宏之さん、浅川嘉富さん、池田整治さん、大村恵昭さん、川田薫さん、倉田大輔さん、神坂新太郎さん、副島隆彦さん、高木善之さん、藤平光一さん、中丸薫さん、中矢伸一さん、比嘉照夫さん、ベンジャミン・フルフォードさん、政木和三さん、増田悦佐さん、増田俊男さん、村上和雄さん、森田健さん、など。
 このほか、船井さんの著書の紹介かどうかは定かではないが、今でもよく著書を読む人には、次のような人がいる。木内鶴彦さん、日下公人さん、野口晴哉さん、野口悠紀雄さん、長谷川慶太郎さん、保江邦夫さん、宮崎貞行さん、矢作直樹さん、渡部昇一さん、など。

 さて、ちょうど29歳のころのある日曜日、いつものように喫茶店で読書や思索をして家に帰ると、母から、「昔、千葉大で一緒だった内堀さんという人から電話があったよ」と話を聞いた。十年近く会っていないので何かと思い電話をすると、ただ、「中根君の夢を見たんだけど、何かあった?」ということだった。何だそんなことかと思い、今何しているかと聞くと、まだひとり暮らしで、実家のある群馬県で小学校の先生をしているらしい。それならちょうどいいと思い、「じゃあ、結婚しよう」と言うと、驚かれたがすぐに承諾してくれた。
 その数日後、横浜で会ってみると、大学生時代の印象とは全く違いまるで別人のようだった。相手もまた自分のことをそのように思っていたらしい。

 結婚してしばらくしてから、学校事務の仕事を辞めて作文教室の仕事で独立することにした。両親からは反対されたが、妻や兄弟は、本人がやりたければやらせればいいと言ってくれた。
 このときに、普通の大学に入って、普通の就職をしているだけでよかったと思った。よすぎる大学に行って、よすぎる就職をしている人は、独立をするときに苦労するだろうと思った。
 作文教室で生活が成り立つ見通しはなかったが、若かったので、作文教育というものに面白い可能性がありそうだという一点だけで独立に踏み切った。だから、作文教室を始めた本当の動機は、「面白そうだったから」ということになる。
 しかし、作文教室だけでは収入が不十分すぎるので、運送会社で夜間や早朝のアルバイトをしながらの生活だった。未明に起きてアルバイトをして、夕方家に帰り、それから作文教室の仕事をするというような生活がしばらく続いた。
 生活は苦しく、先の展望も見えなかったが、自分のこれまでの多くの人に甘えてきた生活が浄化されているという気がして、かえって納得する気持ちがあった。
 作文教育についても試行錯誤が続き、作文を子供たちに教えるということがかなり難しいということがわかった。しかし、国語や数学や英語のように答えのある勉強は独学でやればいいという考えだったので、作文だけの教室で仕事を続けた。
 当時、夢で見たイメージは、傾斜の急な山道をひとりで登っていて、横を見ると同じように登っている人はもう誰もいず、しかし、自分だけはただひとりでこの山を登り続けるというものだった。

 1984年に、長男龍一郎が生まれ、1987年に、次男潤之介が生まれた。
 二人とも近くの保育園に預けて育てた。自分が作文教室で子供たちに教えている途中に、保育園から呼び出されて迎えに行かなければならないことがときどきあり苦労した。
 保育園の園長はよく、「自営業者の子は預かりたくない」と言っていた。親子の関わりが薄くなりがちなので、子供がなかなかまともに成長しないということだった。
 しかし、うちは子供が家にいるときはできるだけ一緒に遊ぶようにし、日曜日は極力近くの公園や山で遊ぶことにしたので、二人とも比較的まともに育ったと思う。

 1990年に、言葉の森を有限会社にした。本を読んで自分で定款を作り書類をそろえ法務局に提出した。そのころは、会社を作る書類はきわめて複雑だったので自分で作るような人はほとんどいなかったと思う。
 子供が小学校に上がるようになるころも、家計には全然余裕がなかったので、習い事などは一切せず、言葉の森の通学教室だけに通わせた。結局、二人とも小1から高3まで、言葉の森だけをやっていたことになる。
 子供二人は、途中で友達に誘われたりちょっと興味を持ったりして、ほんのわずかの期間近くの学習塾に行ったことはあるが、本格的な勉強はずっと学校でするものだけだった。
 私は、自分の昔のことを考えて、勉強は学校でしていれば十分だと思っていたので、子供たちには家で読書と言葉の森の音読の自習と簡単な勉強だけをさせていた。しかし、長男が小3か小4のあるとき、学校で学力テストがあり、国語が驚くほどよい成績で、その反対に算数が驚くほど悪い成績だったので、今の学校には教育力がなくなったのだと思った。
 ただ、親子で話をしていれば、子供の実力は大体わかるので、成績が悪いのは勉強していないからだから心配ないと言って、その後も家庭では、読書と言葉の森中心の生活を続けた。

 その後、長男は早稲田大学文学部に入り、次男は早稲田大学社会学部に入った。結局、勉強はやる気になればいつでもそれなりにはできるようになるということだと思う。
 長男は公立高校で高2まで自由に遊び、高3からひとりで受験勉強を始め、大学にはたぶん余裕で合格した。国語は満点だったと言っていたから(笑)。
 次男は小中学校時代、バスケットボール三昧の生活を送り、中3のときスポーツ推薦で早稲田実業高校に入りそのまま大学に進学した。推薦入試で小論文の試験があったことが、言葉の森の勉強が役に立った数少ないケースだったと思う。次男は、中学まであまり勉強していなかったので、高校では最初苦労したようだが、根が真面目なのでそのうちに何とかなった。
 長男の大学受験のころは、東大で小論文入試があったので、「言葉の森の宣伝のために受けろ」と言ったが、「親父のために受験するんじゃない」と拒否され妻もそれに賛同したので実現しなかった。

 言葉の森の会社の方は、最初自分ひとりで経理から何からやっていたが、細かいことが苦手でいつもかなり時間がかかった。途中で、姉が事務を手伝ってくれるようになり急に仕事の能率が上がった。
 初めのころはキャノンの記憶容量20MBという当時の最高級レベルのビジネスワープロを使っていたが、やがてワープロの時代が終わり、パソコンのワープロソフトを使う時代になった。
 最初は富士通のパソコンに一太郎のソフトを入れて入力していたが、仕事上、表計算ソフトやデータベースソフトとの連携をする場面が多くなり、やむを得ずマイクロソフトのワード・エクセル・アクセスのセットに変えた。
 パソコンの便利さがわかってきたので、作文教室の子供たちにもパソコンで作文を入力するようにすすめ、アップル社のクラシックというパソコンをレンタルで十数台入れ、それらをずらっと並べて作文を書くようにした。当時の子供たちが書いた1998年ごろからの作文は、今でもウェブで見ることができる。→作文小論文の花

 当時、ゲーム機が流行り始めた時期で、子供がゲームに熱中しすぎるということが話題になっていた。こういうものは早めに免疫をつけておく方がいいと思い、子供がまだ小学校低中学年で何も言い出さないうちから、ファミコン本体と中古のソフトを買ってきて、家でやることにした。最初のソフトは、「ゼルダの伝説」と「ファイナルファンタジー4」で、親の方が熱中した(笑)。
 ただし、家でやるのは1日15分と決め、テレビも1日1時間以内と決めていたので、生活に支障はなかった。しかし、ファミコンはセーブポイントがなかなか見つからなかったり、セーブしたデータが操作ミスで消えてしまったりということがあり、そのつど小さなドラマがあった。

 私は自分の子供時代、貸本屋で漫画を借りてよく読んでいた。読書好きな子は、漫画も好きなのが普通だ。しかし、日本の漫画はレベルが高いので、熱中すると漫画しか読まない生活になる可能性があった。
 そこで、子供たちには、漫画はいくら読んでもいいが、1冊の漫画について読むのは1回だけであとは押し入れにしまい、もう一度読みたいときは押し入れからわざわざ出さないと読めないということにした。テレビと同じで、居間にいつでも置いてあれば惰性で手にとって読むような生活になると思ったからだ。ただし、「スラムダンク」だけはいつでも読みたいというので、目につくところに置いていいことにした。そのため、スラムダンクは、一つの場面の細部まで読み込み、観客席の人物の表情まで覚えていた。
 しかし、結果的にこの方法は不評だったようで、後年子供たちが成長してからは、漫画がたっぷり読めなかったと文句を言われた。

 作文教室は、通学の教室で行っていたが、やがて引っ越しする子や時間的に決まった曜日に来られない子が出てくるようになり、その子たちの親の要望で電話の通信指導をするようになった。
 当時のインターネット環境は速度がかなり遅かったので、送れるのはほとんど文字情報だけだった。
 しかし、将来、インターネットでいろいろ面白いことができる可能性がわかったので、インターネット上に言葉の森のコンテンツをアップロードすることを始めた。
 インターネットはしばらくは、新しい物好きの人たちのものだったが、2000年ごろから、急に広がるようになり、それまで細々と行っていた通信指導が突然活発になった。
 通信の講師も、インターネットで募集したが、このころインターネットを始めている女性はかなり進んでいる人だったので、自然に優秀な講師ばかりが集まった。

 言葉の森は、日本では数少ない本格的な通信制の作文教室だったので、生徒も全国から優秀な子供たちが集まった。
 当時、同じように通信の作文教室を行っていたのは、宮川俊彦さんの国語作文教育研究所だった。一度、作文教育について意見交換をしたいと思い電話をしたが、あまり気乗りがしないような感じだったので、結局会うことはなかった。
 言葉の森の作文教室が流行っているらしいということを知ったせいか、Z会やベネッセも、一時通信の作文教室を始めたことがあった。最近では、ブンブンどりむが通信の作文指導を行っている。
 そういう他の作文教室は、言っては悪いが入試に作文試験が増えたというニーズに基づいて始めたものだろうから、うたっている理念は取ってつけたようなものだったと思う。
 言葉の森も、入試に向けた指導については、他のどんな塾や予備校や通信教育の指導よりも自信があったが、もともとの原点が違うので、そういうことはあまり前面に出さなかった。
 2004年のころに、自分と会社の目標と方針を書いた。今の考えとは若干違うと思うが基本は同じだ。→目標と方針

 作文教室を始めたころは、やがて作文が教育の中心になり、誰もが作文を書く時代が来ると思っていたが、そういう予測はなかなか実現せず、作文はいまだに勉強のごく一部という位置づけで教育が行われている。
 しかし、いつ作文が教育の中心になる時代が来てもいいようにと思い、作文に客観的な評価の基準を作るために、作文の自動採点ソフトを作ることにした。
 ちょうど、奈良先端科学技術大学院大学で開発された茶筌(ちゃせん)という形態素解析システムが使えるようになっていたので、それをこれまでの中高生の作文にあてはめていろいろ分析してみた。
 しばらく試行錯誤でやっていたが、あるとき上手な文章のポイントが数値で表されるところがわかったので、その原理をもとに数週間で森リンという自動採点ソフトを完成させた。かかった費用はプログラミングの結果を印刷するためのプリンタ代だけだからせいぜい数百円程度。
 そのころ、アメリカでe-ratorという小論文の自動採点ソフトが開発され実用化されているという記事を読んだので、森リンの英語版を作り、e-ratorの評価と比較してみると、ほぼ一致した。
 日本、アメリカ、中国、韓国などに国際特許を申請したが、最初に返却された英語や中国語が読みにくいので諦め、日本の特許だけ取ることにした。

 その後、森リンの開発は進めていないが、今の人工知能の仕組みを使えば、もっと実態にあった作文の評価や記述試験の評価ができると思っている。その方法は、ある設問について文章を書く場合、その設問に関連する語彙群の密度分布のようなものと、書かれた小論文や記述解答の文章の語彙群の密度分布のようなものを比較することだ。
 評価の基準は、語彙群の一致度の高いものと低いものができるだけ広がっていること、つまり同じようなことを書いているだけのものは評価が低い。また、全然違うことを書いているものも評価が低い。同じような語彙と、全く違う語彙の両方が書かれていて、しかもその両者の語彙のつながりが断絶しているのではなく急角度の傾斜でつながっているものが高い評価を得られる。
 こういうソフトを作りたいと思っているが、今はほかのことに忙しいので、誰かがこのアイデアで作ってくれればいいと思っている。

 ソフト作りを楽しんでいるとき、やはりアメリカで、株式投資のソフトを作っている人がいて大儲けしていることを知った。そういう人の一人が今のアマゾンのジェフ・ベゾス氏。
 言葉の森を発展させるために、資金が必要だと思ったので、株式投資のソフトを作ることにした。
 リアルタイムで株価のグラフが表示され、買い時、売り時がわかるソフトを作り、そのための株式会社も作った。
 ちょうどそのころ、森田健さんの六爻占術の話を知ったので、その本を買ったが、内容が複雑なので全部覚えきれないと思い、それもソフトに作り直した。
 株価のソフトと、六爻占術のソフトを組み合わせて、当初は儲かるときが結構あったが、仕事中に作業する時間がなく、やることがだんだん雑になってきた。
 2008年にリーマン・ショックがあったとき、これで売れば儲かると思ったが、みんなが不幸なときに自分だけ儲かるというのはよくないだろうと思い、それまでの株を全部手放し結局数十万円損をした。
 株式投資はいろいろ頭を使って面白いと思うので、経済が発展してみんなが同じように儲かるような社会になったら、そして自分が年をとってほかにすることがなくなったらまた再開したいと思っている。

 このリーマン・ショックのときに、みんなを守ろうと思い、玄米を3トン仕入れ、昔の教え子たちに頼み3階の教室まで運んでもらった。
 玄米を長期保存ができるように真空封入機を買い、全部真空パックをして保管した。
 しかし、結局この玄米の山は使うことがなかったので、その後講師に箱詰めで送り、それでも余った分は地域のお祭りのときに無償で配ることにして、みんなから笑われた。

 2011年に東日本大震災があり、それまでも自分の目的は日本をよりよい社会にすることだと思っていたが、その大震災をきっかけに、日本を守るという自覚が一層明確になった。
 ニーズの薄い作文教室だけやっていたのでは、日本をよくするには力不足だと思い、教育全般に関わる仕事をすることにした。
 それまで、自分自身は独学でずっとやってきたし、自分の子供たちにも学習塾や予備校に行く必要はないと言いそれを実行してきた。しかし、周囲のほかの子供たちをみると、ほとんどが何らかの塾に通っており、毎日勉強に追われている割に学力がついていないようだった。
 そこで、子供たちに自学自習の方法で勉強をさせる教育を行うことにした。子供たちが家庭で自分の力で勉強できれば、親子の対話も増えるし、地域の交流も増えるし、費用はほとんどかからないし、子供たちの成長には塾通いよりもずっとプラスになると思った。
 ちょうど、ネットワークで画面を見ながらやりとりできるウェブ会議システムがクラウド上でできるようになっていたので、家庭での自学自習と先生のインターネット経由のアドバイスを組み合わせる形の寺子屋オンエアを始めることにした。

 2013年に寺子屋オンエアを始めてみると、既にある程度自学自習の習慣がある子は順調に勉強を進められるが、他人に教わることが勉強だと思っている子は、先生が教えてくれるまで待つというような受け身の姿勢になりがちだということがわかった。
 そこで、先生の授業と、生徒の発表と、保護者との懇談を組み合わせたオンエア講座をスタートさせた。
 寺子屋オンエアやオンエア講座を組み合わせると、作文だけでなくあらゆる勉強がネットワーク上で高度にできることがわかったので、将来はこのオンライン指導システムを使い、自然の豊富な田舎で子供たちの合宿教室を開こうと思った。
 ネットワークは場所を選ばず勉強はどこでもできるようになるので、日本だけでなく、外国の子供たちもこのリアルな合宿教室に参加することができるし、また、外国にもこのオンエア合宿教室を広げることができるという展望がわいた。
 ネットワークなので、教える先生は全国にいて、生徒だけが自然の豊富な田舎で合宿をしながら遊んだり勉強をしたりして、週末には父母のいる家に帰るというような仕組みだ。

 そのための場所を誰かが提供してくれないかと思い、ホームページの記事に書いたら、生徒の保護者から、「使っていない別荘地の土地があるので言葉の森に寄付する」という話があり、大いに驚いたがありがたくいただくことにした。
 ただし、そこに合宿所を作るのはかなり時間がかかるようだったので、いろいろ考えていたら、近くに半年前まで使われていた売りペンションがあることがわかった。既にできているペンションなら稼働するのも早いので、そこで合宿教室を行うことにした。
 この合宿教室の特徴は、日中は自然の中でたっぷり遊び、朝と夜はネットワークでしっかり勉強できること、そして何泊でも泊まれることだ。初年度は24人ぐらいを一組にして、2泊3日程度の参加者を15組ほど募集することが目標だ。勉強を教えるのは、ネットワーク上の全国の先生で、子供たちの生活を管理するのは、現地で採用する人たちにする予定である。
 いわゆる夏合宿などでよくありがちな、遊びだけの合宿、イベントだけの合宿、又は逆に勉強だけの合宿ではなく、日常的な生活として遊びと勉強を組み合わせた合宿で、特別なイベントはせずに子供たちが自分たちで遊び方を工夫していくためのアドバイスをするような形の合宿教室にしたいと思っている。

 保護者の方から寄付していただく土地は、当面建物を建てるのは延期するが、場所としては、近くに小高い丘があり、遊べる川があり、温泉も引けるいいところなので、別の用途で活用したいと思っている。新しくペンションを買うところから、車で15分のところなので、いろいろな活用法が考えられる。

 さて、このあとの言葉の森の目標だが、当面は、自然寺子屋合宿教室を「森の学校オンエア」という名前で、全国に展開しようと思っている。
 その合宿教室で行う教育は、自然との関わり、生き物との関わり、友達との関わりを大事にすること、自学自習方式で基本的な学力をつけ学校よりも先取りした勉強をすること、学力だけでなく勇気や思いやりのような文化的な力を育てること、創造性を育てること、知識だけでなく手作業を必要とする工学的な力もつけること、日本の歴史や文化を大事にすること、心身の力を育てること、などだ。
 中でも、創造性を育てることが一番の目標で、そのために、これまでの経験を生かした新しい指導ノウハウを考えている。

 森の学校オンエアを広げるために、森林プロジェクトの講師が、森の学校を経営することができるようにしていくことを考えている。そこで、更に新しい指導上のノウハウが開発されていくと思う。
 日本の小中学生の子供たちの教育に見通しがついたら、次は、幼児期からの教育と、日本以外の外国の子供たちの教育を行っていくつもりだ。
 そのころは、森の学校オンエアも、日本の田舎だけでなく、都会にも、海外にも広がっていると思う。
 そして、この教育分野の産業が、人間の創造性を育てる価値ある産業になり、日本の経済を発展させていくようにしたいと思っている。



写真


0歳のとき母と。


同じく0歳。


3歳。


中学1年生のとき。


高校1年生のとき。


大学2年生のとき。


25歳のころ、尾瀬で。


27際のころ、北海道かなあ。


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