表現項目と作品例(高1相当)

表現項目キーワード
当為の主題べき
複数の方法方法、そのためには
反対意見の理解確かに、もちろん
自作名言ではなく、でなく、大切なのは、大切なことは、大事なのは、大事なことは、重要なのは、重要なことは
段落(段落をつけることができる)
常体(常体で書くことができる)
誤字(誤字が二つ以上ある場合は減点)
(作品例は項目の入れ方を示しています。合否の水準とは関係がありません)

 作品例 字数1485字、素材語彙128種、強力語彙24個、重量語彙58種、得点88点

 アンパンマンのアニメを見ていて、気づいたことがある。それは、毎週に渡り、勧善懲悪的な物語が繰り返されているということだ。そして、そこでは悪者は徹底的に悪く、正義は、敵が悪となってしまうその理由を探り、歩み寄る、ということをしない。そういった、「一元化」もしくは「ワンパターン化」がドラえもんの世界にも、そして子供の世界にそれが起こっている。しかし、世界はそんなに単純ではないし、人間もそうだ。そこで、私はもっと物事の複雑さを考えるべきだと思う。そして、そのためには次のような方法が挙げられる。
 それは、マニュアル主義を改める、ということだ。どういうことかというと、つまりマクドナルドの店員の反応が最も分かりやすくかつ顕著な例といえるだろう(笑)そういえば、そのマック(略称)の店員の反応を見ていて、思ったことがあったのだ。それは、なぜ彼(もしくは彼女)たちはあそこまで執拗に「こちらで召し上がりますか、それともお持ち帰りですか」と聞いてくるのだろう、ということだ。私の考えと観察によると、マックに来る客の約8~9割は店で食べていく。さらに、テイクアウトをする客は、必ず注文の前にその旨を伝えている。つまり、この現象から導き出される結論は、マックの店員がする先の質問は、全く意味を成していなく、さらには一見合理的に見えるマニュアル化が非常に非合理的になっている、ということだ(などと書くと数学アレルギーを起こす人がいるだろうか)また、ついでに言うと、この聞き方では、次のような場合の対応ができていない。その対応ができないケースというのが、食べてかえるがいくつかは持って帰る、というケースだ。まぁマックでそんな流暢なことをする人はいないだろうとは思うが(笑)とにかく、このようにマニュアル主義には物事が複雑になってきた際対応しきれないというデメリットがつきまとうのだ。
 また、物事の複雑な部分まで考えるためには、こんな方法もある。それは、社会において世代同士で交流を交わす、ということだ。それはいったいどういうことなのだろうか。過去に読んだ長文には、次のような話があった。「異なる世代が出会い、語り合うということはつまり、生きる知恵を若者に身につけさせるチャンスを作り出しているということだ。」などという内容だった。これはどういうことだろうか。私は、生きる知恵=相手の立場にたって考えるということだと思っている。別の言い方をすると、いかに相手に不要な不快感を与えないで過ごす(会話する)か、ということになる。そして、その話術は、相手が複雑な要素で構成されている人だ、ということを理解しなくてはならないであろう。
 しかし、先ほど散々に言っておいてなんだが、実際機動力があるのは確かにマニュアル化されたほうであろう。だから、実際警察や自衛隊間もマニュアル・・・規則に縛られているのかもしれない。だが、あいてがもし、こちらの思考を読み、先回りをするようなタイプの犯罪者だったらどうするのだろう。せっかく犯人を追い詰めかけたのに、発砲命令が出なかったため犯人を取り逃がす、ということがおきるかもしれない。「複雑とは、それ自身がすでに難解なのではなく単純という魔法が理解しがたい神秘を生み出しているだけなのだ。」単純、という言葉がなければ複雑という概念はもしかしたらなかったかもしれない、と思って作った言葉だ。しかし実際複雑さは存在する。単純という言葉がその存在を強固にしている。ならば我々はどうするべきなのであろうか。そう、その複雑さを理解しようと考えることしか道はないのである。 (awaseさんの作文より)


 表現項目と作品例(高2相当)

表現項目キーワード
社会問題の主題問題
複数の原因原因、背景
反対意見の理解確かに、もちろん
自作名言ではなく、でなく、大切なのは、大切なことは、大事なのは、大事なことは、重要なのは、重要なことは
段落(段落をつけることができる)
常体(常体で書くことができる)
誤字(誤字が二つ以上ある場合は減点)
(作品例は項目の入れ方を示しています。合否の水準とは関係がありません)

 作品例 字数1329字、素材語彙152種、強力語彙35個、重量語彙67種、得点98点

 日本人は狭い所が落ち着くと言われる。レストランでは壁際の席から順に占領し、弁当は教室の片隅で食べ、子供たちは秘密基地をつくる。これはかつての、広葉樹林に覆われ暗く湿ったなかで暮らした縄文の時代から綿々と引き継がれる、一種の文化と言ってしまっても差し支えない。家は広々としたリビングと大きな庭を持ち、部屋の境界が薄いアメリカとは大きな違いがある。ところが最近、こうした本来日本人の感性には合わない「広々とした」アメリカ式の家が流行ってきている。当然どこか落ちつかないのだろう、日本人たちは本棚やこたつで、さりげなく、しかし一生懸命に生活空間を狭く狭くしようとしている。どこか滑稽でもある。
 こうした問題が起きてくる背景は、明治維新まで溯ることができるだろう。幕府が崩壊し鎖国が解かれ、数多の「優れた」外国文化が多く流入した。しかし日本人は「外国に遅れている」という認識はあったものの、ではなにをどこまで外国へ合わせればいいかはわかっていなかった。遅れている文明を入荷するだけでなく、優劣はなくただ違うだけのものである文化さえも、時代に流され受け入れてしまったのである。結果髷は切られ、日本の気候に合わない洋服が主流になり、人々は「古臭い」自国の文化を軽蔑し、欧米へ盲目的な憧れを抱いた。そのナンセンスな感覚が、現在まで引き継がれていると言えよう。外国のものはカッコイイ、という風潮は今でも根強い。先日聴いたある日本のビジュアルバンドのアルバム中に、フランス語で書かれた詞があった。日本の隅のバンドの曲をフランス人が聞くことなど皆無であろうし、むしろ主要な客層は日本人である。大多数の日本人にわかるわけもないフランス語で歌詞を書くというのは、それは単純に「その方がカッコヨク見えるから」というバンドのポーズに過ぎないだろう。そして実際にそれが「なんとなくインターナショナルでトレビアン」と思われてしまうのが近代日本の風潮である。
 また第二の原因として、日本の経済構造がこれに対して何らの対策を講じなかったことが挙げられるだろう。売り手としては当然のことで、売れ筋の商品を堅実に回していったら、いつしか自然と今の構造が作られた、という感じかもしれない。それこそ時代の流れということもできるだろう。しかしむしろそうした製品の流通に携わる人間だからこそ、古来からの生き方を大切にしていくことには敏感であるべきだ。それが伝統として伝えられてきたのは、日本の風土や日本人の魂に、それがよく似合っていたからだろう。風通しの良い和服は湿気が多く気温の高い日本の夏に適し、狭い部屋で万年床に眠るさまは、閉所を愛する日本人の心によくあっている。
 確かに諸外国の文明は日本よりも優れた部分はあるだろうし、文化においても、日本文化の有する欠陥を埋めるような尊敬すべき部分があるだろう。しかしそれを追い求めるあまりに、己を忘れ、ひたすらに他を模倣するようであってはならないのではないだろうか。日本にもまた尊敬されるべき文化はあり、もちろん尊敬すべき文化もある。大切なのはそうした様々な違いのなかで、本来必要とされる部分と、むしろ変革していくべき部分を見極めていくことではないだろうか。 (ukiさんの作文より)

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