元の記事:私達が日常 (805字)
こうた aewata 2025/11/10 23:29:52 55506
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11、2週 私達が日常
私達が普段、言葉を使うときに、表される内容がまずあって、それを持って運ぶ手段として言葉があると言うふうに考えている。私たちの関心は内容にあるが、仲介役としての言葉には注意を払わない。そして、言葉が不透明になっている様な感じがする。しかし、「かっぱ」と言う詩を読むと、俄然言葉が私たちの前に塞がって、それに私達が頭をぶつけていると言う印象を持つ。使われている言葉は難しくなく、「かっぱ」と「かっぱらった」の様な似た語形が多く使われ、語形が似ているために言葉の意味まで同じではないかと考え始める。「かっぱ」はいたずら好きであると言うことから「かっぱらった」もカッパのする様なことを意味するのでないか。詩人と呼ばれる人達は、日常の経験をことがの枠を超えて話すと言うことが必要である。今の私たちの脳は、実用性にかたよっていて、私的な言葉遣いや考え方に欠けている。詩的な言葉使いは「美的」である。このことから、詩的な言葉遣いをするのは大切だ。
第一に、詩的な言葉を使うことで印象を強くしてくれるからだ。
例えば語呂合わせ、塾の先生に習った
1192作ろう鎌倉幕府
894に戻そう遣唐使
などだ。この様に覚えることで、印象に残りやすく、リズムを取ることで言葉遊びの様な感覚で覚えられる。
このことから、この様な面でも詩的な言葉の考え方は使えると思った。
第二に、実用液な言葉ばかりではつまらないからだ。
学校の授業でただ事実を伝えるだけでは面白くない。
諺や、だじゃれを交えながら説明してくれた方が、面白くかつ印象に残って覚えやすいと思う。このことから、実用的な言葉だけだと面白くない。
確かに、本当に正確でないといけないときには詩的な言葉は適切ではない。しかし「人は食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのだ」と言う名言があるように、言葉は事実を伝えることにも使われるが、その存在に意味があるのだ。