例えば、いじめや不登校、そして校内暴力など様々な課題があるが、特に問題視されているのは、生徒の学習意欲の低下や、何のために学校に通っているのか、などといった生徒それぞれの内面にフォーカスされたものである。 (102字)
「子ども」に関する、生み出されたままの概念が未だにそうである状況は問題だ。その原因は以下の二つにある。
一つ目としては、明治五年に公布された学制が挙げられる。そもそも学制の理念は二つあり、誰もが教育を受ける権利を所有していることと、教育によって立身出世を望むこと、である。制度的にはフランスの模倣であるが、具体的な方針的にはアメリカを参考に発布された。この後に徴兵制も制定されるが、兵隊を作る際に、地域ごとによる言語の壁を取り壊し、より円滑的なフットワークを行えるように、といった目的も学制には含まれていたようである。要するに、「学制」というのは、民衆の知識的レベルを向上させ、さらに「国家を支える国民」つまり「日本人」としての意識付けをさせるという意味合いを持っているということだ。国民意識を高めることが、欧米諸国に負けず劣らずの姿勢をとることを可能にする大切な要素となるのだろう。もちろん、学生側にも様々なメリットがあるが、多くは政府側に多大な利益があるという政策だ。「誰でも平等に教育を受けられる」と言われれば聞こえこそ良いものの、本来であれば、生まれによって異世界に暮らしていたそれぞれが、同じところに集まり、同じ方向を向いて均一な空間や時間を過ごすということになる。果たしてこれは本当に良いことなのか。明治維新以前は、良くも悪くも、「子ども」という概念ははっきりと定まっておらず、地域や家系によって、その捉え方は様々であった。だが、「子ども」とはなんたるものか、ということがはっきりと定義されてしまっている今、「子ども」たちは言わば、国家の産業の後押しのために尽力する操り人形のごとく日々学びを積み重ねている。このように一向に「子ども」の定義を変えないようでは、自国の産業が発達しないのも無理がないのではないか。
二つ目に考えられる原因は、政府が現在の教育方針に満足してしまっているからだ。その一例が日本の義務教育制度である。これに関しては、憲法第二十六条にて、小学校から中学校までの教育を「無償」とすることが明言されている。社会に出て行く際に役立つ最重要な知識(教養、と呼ぶこともあるだろう)を身につける最も大事な時期の教育が義務化されている、ということは日本の教育制度のメリットである。たとえ経済的な余裕がなくとも、学校に通う資格は誰にでもあるということだ。だが、もちろん義務教育ならではのデメリットも存在する。例えば、いじめや不登校、そして校内暴力など様々な課題があるが、特に問題視されているのは、生徒の学習意欲の低下や、何のために学校に通っているのか、などといった生徒それぞれの内面にフォーカスされたものである。私の学校は、私立であるし全国的に見れば、教育水準も高く、学費もそれに応じているため高いだろう。つまり、比較的裕福な家庭に育ち、学習環境も極めて良く、「経済的に困窮している」友達が間近にいるわけではない。だから、さほど気にかけたことはなかったが、やはり高等教育の無償化に関しても大きな注目が集まっている現状がある。これは義務教育のデメリットというよりもむしろそれに関する解決策と言えると思うが、低所得者の家庭でも、学びたい意欲を尊重して進学できる、という制度だ。実際、これらは普及しているとは言いがたいが、実行に移されている。日本は教育においてさほど劣っているとは言われていない。だが、現段階からさらに学力を向上させるための一つの手段として、大学進学の簡易化である。私は何も入学試験の撤廃をもとめているわけではなく、大学進学を経済的理由から断念してしまう人に教育の機会を与える必要がある、と考えているのだ。世界でも、学習到達度が高いと言われるフィンランドやアイスランド、そして競争率の激しいドイツなどその他の国で大学の無償化などが行われている。やはり日本には未だに教育水準に関して改善の余地は存在し、一人一人の学びの可能性を絶やさないよう、取り組みをしていってほしいと思う。
たしかに、根本的な子ども観は大きく変えられるべきではない。だが、教育制度とは、一度制定したものの継続によるものではなく、時代の変化に応じて臨機応変に新たなものへ転換することによるものであるはずだ。だから、過去に生み出された「子ども」に関する定義が未だに変えられていないのは問題だ。
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