個人的には、国語の小説問題で、不正解があることに耐えられないのだが、主観はおいておくとして、全てに正解や規範を設けるのは、逆に人間性を損なうのではないだろうか。 (80字)
現代では、身体と肉体との疲労の差に大きな乖離があり、そのバランスが取れないことが問題となっている。手応えのない不安が我々のうちに潜在し、その焦燥感が、勢いや手応えのあるものに向かって、闇雲に発散されようとしている。これを受けて私は、行動と思考に距離がある時代だからこそ、出来事に対しての心の動きに敏感であるべきだと考える。
一つ目の方法としては、実際に人に会ったり、行動に出てみたりすることである。私は普段の学校生活で、障害者に対する偏見を持たないことや、様々な人種、思考の人も互いに受け入れながら生きていく、という話について学ぶことが多い。理論上はどの話も可能であるが、ぶっちゃけ綺麗事であるから、実際にやってみないとわからない。さらに、実際にやってみると、全然うまくいかない。たとえば、私は小学生の頃、養護学校に行く研修があった。室内に入ると、奇声を発して暴れ回っている男の子がおり、私は青ざめた。あの子が自分の担当になるのだけは避けたい、と思っていると、先生に「あの子が担当の子だからよろしくね。」と言われ、途方に暮れた。怖かった。することもわからないから、ただ彼に付いていった。その子は室内が嫌いみたいで、外に出ると途端にご機嫌になった。話しかけても、何も返してくれないけど、草を引っ張ったり、水に触れたり、思うままに羽を伸ばす彼の近くにいると、私は段々とホッとした。3時間、かれこれそれ以上、ずっと遊んでいたのだと思う。一度だけ、彼が私に話しかけてくれたことがあった。目があって、彼はかすかに私に首を傾げた。嬉しかった。勝手にそう思っているだけだと、今ならばわかるけれど、私の障害者に対する怖さ、未知、誤解が、綺麗にとれた瞬間だった。帰り際、私は、施設の先生から、つまらなかったかな、というような言葉をかけられた。私は思いを素直に口にできる子じゃなかったから、何も言わなかった。ただ、今まで感じたことのない穏やかで豊かな、濃密な時間をもらったこと、今でも覚えています、と伝えたいな、とたまに思う。こんなことを書いているが、自らの愚かさを百も承知で書くならば、本当は施設訪問の前日、母にこう言っていた。「何を言っているかわからないし、不審者と違いがわからないから、怖い。」と。今なら、間違いだと言えるし、自信を持ってとても素敵な子だったと胸を張れる。でも、会ってなかったら、目が合ってなかったら、一緒に水を見ていなかったら、と思うと、不安になる。結局は、これに変えられるものはないのである、と。
二つ目の方法としては、社会全体で、自分で考えさせる機会を増やすことである。個人的には、国語の小説問題で、不正解があることに耐えられないのだが、主観はおいておくとして、全てに正解や規範を設けるのは、逆に人間性を損なうのではないだろうか。たとえば、「人を助けるのがいい子です。」と教えられたとして、いいことをしたら大人に褒められる。そのために、人を助ける子になった。確かに、助けないよりはいいのかもしれないが、私としては、なぜ自分がその子を助けるのか、感覚としてわかっていた方が望ましいと思う。いつも優しくしてくれるから、とか、嫌いだけど泣いてはほしくないから、とか何でも構わないのだが、その基準を他人に委ねることは、思考を放棄することと同一だ。ところで、私たちが普段の生活を、安心して過ごせるのはなぜだろうか。そこに、秩序があるからである。ブーメランを飛ばすとすれば、その秩序に依存した社会では、その意味や意義を考えながら過ごしている人が、一体どれほどいるといえよう。リアルものぐさトミーが大量発生して社会現象になるのも、そう遠くはない。
確かに、全ての事象に喜怒哀楽していては、精神的な健全性を維持することはできない。しかし、笑うよ、面白いから、という名言のあるように、本来、心と体は何よりも単純な構造で存在していたはずである。発展した社会の中で、便利さの延長線上に、相互間での複雑さは進んできた。そこで私は、行動と思考に距離がある時代だからこそ、出来事に対しての心の動きに敏感であるべきだと考える。心が壊死しない限り、私たちの行動も枯れることはないからである。
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