| 今日の日本の社会において | 
| アジサイ | の | 峰 | の広場 | 
| 玲子 | / | あそわ | 高2 | 
| 今日の日本の社会において史家の多くは歴史の専門的な部分あるいは表面的 | 
| な部分にとらわれているためそのどちらの場合もかたよった考え方になってし | 
| まいなかなか私達が興味を持って親しむことの出来る書物が少ないという事態 | 
| になっている。このことは史家だけではなく学者全体にもいえる事ではないだ | 
| ろうか。 | 
| しかし、こんな事態でも私は歴史を楽しんでいます。それはいつでも歴史の | 
| 中でおきた出来事や事件の背景にある人間達の姿を読み取ろうとするからでは | 
| ないだろうか。このことは決して本の上だけでは学べない事だ。ではどのよう | 
| なものからかというと映画という映像の中からや人から直接話を聞くことから | 
| などだ。たとえば、この間テレビで正統鄭溥儀の一生を描いた番組が放映され | 
| ていた。その番組に興味を持った私はさっそく「ラストエンペラー」という映 | 
| 画を観た。そのなかには歴史の流れがスムーズに描かれておりかといってそれ | 
| だけではなく登場人物の人間像などがしっかりと描かれていた。この作品の中 | 
| では表面的な部分と内面的な部分の調和が成り立っていた。 | 
| どんなことにも調和ということは大切なことではないだろうか。それがたと | 
| え歴史の書物であったとしても人々に知恵を与える学者の場合にしてもだ。一 | 
| 人大学にこもり世間の役に立たないような細かい細かい研究を社会とは隔離さ | 
| れた中で一生おこなうの学者が立派だと言えるのか。そうではない。歴史の中 | 
| に出てくる立派な学者達は学者以外にもさまざまな事をしていた者が多い。社 | 
| 会のさまざまな部分を見て人々に必要な事を探したのだ。ものごとをある一点 | 
| から見ていても何も始まりはしないのだ。違う角度から見たり時には中身を割 | 
| ってみたりと色々な方法でものを見てこそ初めて真実が見えてくるのだ。 |