| 裏切りの精神 |
| アジサイ | の | 道 | の広場 |
| 眠雨(みんあ | / | うき | 高1 |
| 人間は独りでは生きていけない生物である。それは例えば食料の調達や寝床 |
| の確保といった生理的な面だけではなく、人間はその生存理由として他者との |
| 触れ合いを欲する。人間と他の動物との大きな違いの一つに、非常に発達した |
| 「言葉」が挙げられる。しかしその有史以来人類の発展を促進してきた魔法で |
| さえ、対象となる他者が居なければ効力を発揮し得ない。とすれば、現在の我 |
| 々が社会の中で生活するのは当然のことであり、むしろそれなくして我々は存 |
| 在しないとすら考えていいだろう。 |
| だがその社会生活が齎す最大の問題は、集団の中に個人が埋没していくこと |
| である。そもそも生物が有するアイデンティティは、己が全体でなく個である |
| という認識のもとにそれを確立している。言い換えれば、現代社会においてそ |
| れは非常に不安定なバランスの上に存在している。組織のために奉仕するとい |
| うことは、言うなれば巨大な機械に組み込まれた歯車としての己を要求される |
| ことであり、そこでは自意識というものは単なる邪魔物にしかならない。つま |
| り集団の利益を考えるならばあらゆる人間的な感情は否定されてしかるべきだ |
| し、そう在ることこそがむしろ正しくなってしまう。身近な例を挙げさせても |
| らうなら、学校の購買がある。どうしてもパンが欲しいがお金を忘れてきてし |
| まった子に、店員が同情してパンを無料で渡したなら、それは店全体の経営に |
| 悪影響を与えたということであり、その分の損失を店員自身が補填したとして |
| も、歯車の廻りに例外処置を挟んでしまったことによって全体の規律に問題を |
| 発生させる要因ともなりかねない。だが、この店員の行為を個的な視点で見る |
| ならば、困っている人間がいるなら助けるのが当たり前のことであるというの |
| が極めて「正しい」見方になるのだ。個と全とがとるスタンスは異なるため、 |
| 集団に属さなくては人は生きていけないが、集団に組み込まれることによって |
| むしろ己自身を殺してしまうこともある。 |
| ではどうすればいいかというと、人類がこれまで行なってきたことと同じこ |
| とをすればいいのだ。即ち「享受する」ことに満足するのではなく、そこで得 |
| られるものから有用性を抽出し、より自分に対して都合の良い物に加工する、 |
| つまり集団に属するという特性を「利用する」方向へ立つのだ。そうすること |
| により我々は己を喪失することなく社会へ適応することができる。ほとんどの |
| 場合支配者は集団へ埋没せず、集団全体を監視する側に立つ。つまり個を持っ |
| て全体を統治する。そうした存在へなるのが早道だが、そうしたものでも集団 |
| に組み込まれて動く存在がいなければ始まらない。かといって支配階級と被差 |
| 別階級に分けてしまっては、民主主義というものは消滅する。では集団の中に |
| 居ながらにしてその集団に埋没しない方法はと言えば、例を挙げるなら豊臣秀 |
| 吉だろうか。彼は織田信長の部下という立場にいながらのし上がり、天下統一 |
| を成し遂げた。部下に落ち着かなかったその理由は、彼の心の中の向上心にあ |
| ったのだろう。いつかは自分もトップに出るという、「裏切りの精神」と呼ん |
| では言い過ぎだろうか。集団の中に在りながら集団を越えようとするその心こ |
| そが、つまりは個的に世界と融和することであり、またその欲望こそが自我で |
| あるとも言える。実際にトップを奪いとる必要はないが、集団がそうした精神 |
| をもって活動するならばそれはその集団の活性化にも繋がるし、個人毎の活発 |
| な我を持ちやすくなる。 |
| 「宗教は国民の阿片である」という有名な言葉があるが、宗教に限らず集団 |
| は常にその中に、倦怠を与えようというある種の堕落性を潜ませている。社会 |
| はそのシステムで平和に運営されてきたのだから、今更気合を入れて動かす必 |
| 要はないという声もあるだろう。しかし、このままでは我々は埋もれていくだ |
| けである。自ら生み出したシステムに管理され、その中で見失っていくだけで |
| ある。肥大化しすぎた現代集団の中で、必要とされているのは改革である。私 |
| たちは我を持って生きるべきだ。裏切りの精神とも呼べる、その活力を秘めて |
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