| 中国には数限りなく | 
| アジサイ | の | 丘 | の広場 | 
| 武照 | / | あよ | 高3 | 
| エメラルドグリーンの複眼が美しく光り、大きな牙が青色の毛の中からグッ | 
| と突き出す。 | 
| ナショナル・ジオグラフィック誌に広告として掲載されたカミキリムシの頭 | 
| 部の拡大写真である。(この写真は36枚の写真をピントの合った部分だけ合成 | 
| したものだそうである)。この写真の製作者、小檜山賢二氏は同じページに次 | 
| のように書く。「昆虫収集家は、私のように蝶にしか興味を示さぬ「蝶屋」や | 
| 、「カブト虫屋」「カミキリムシ屋」等と興味のある虫によって分類されてい | 
| る。それがどうしたと言われそうだが、それには「それが文化だ」という答を | 
| 用意してある。ある文化に住むものは、その文化にあるイメージを持っている | 
| 。それぞれの文化が合わさる時、言葉だけでなく、時間的感覚といった言葉に | 
| ならない文化が共有されると言う。」 | 
| 日本にとって、最も近い国でありながら、心は決して近くない国々がアジア | 
| であると言って良い。アジアは現在、経済的にも政治的にも急成長を遂げてい | 
| る。第二外国語には中国語を勉強しろとはよく聞くことであるが、それだけ世 | 
| 界に注目されている地域だと言うことである。日本がいかにアジア諸国と親密 | 
| な関係を築いて行けるかに日本の未来がかかっているといえるであろう。しか | 
| し、我々とアジアの関係は必ずしもうまく言っているわけではない。互いに、 | 
| 腫れ物に触れぬように笑顔を装い、スポーツの親善試合などしているのが関の | 
| 山であろう。現在のような状況がいくら続こうとも、北方領土問題と同様、問 | 
| 題は一向に解決しないどころか「言葉にならない文化」が共有されることはな | 
| いであろう。 | 
| アジア諸国と親密な関係が築けない背景は何なのであろうか。一つには、戦 | 
| 争責任の問題がアジア諸国との生産的な関係を妨げていると言うことである。 | 
| しかも注目すべきは、この戦争責任の問題を、日本はときに自虐的にあおって | 
| いるという事実である。シンデレラシンドロームではないが、戦争責任に心を | 
| 痛める自分を演じているところが無いとは言えまい。ドイツは、他国に対して | 
| 、賠償金とナチスの徹底的な廃絶をもって戦争責任を過去の問題として解消し | 
| たという。我々もまた、戦争責任問題から、新たな関係の構築に向けて方向転 | 
| 換して行くことが必要であろう。北朝鮮がミサイルをちらりと見せながら、日 | 
| 本に対して何より先に戦争責任をとることを要求しているという事実は、日本 | 
| が戦争責任という言葉の前にいかに無力であるかということの裏返しに他なら | 
| ないのである。 | 
| それと同時に我々の文化が、表面的ではあっても欧米に近づき、アジア諸国 | 
| の文化のイメージが日本人に理解し難いものになっていると言うことも日本と | 
| アジアの間の隔壁となっているはずである。第一に我々はアジア諸国を知らな | 
| いと言うことである。私は正直なところ、経済特区である中国南部の都市の写 | 
| 真を見た時、これも中国なのかと驚いた。道路は整備され、ソニーの宇宙ごま | 
| のような形をしたビルが建っていたりする。それだけ我々のアジアに対するイ | 
| メージはステレオタイプ化していると言うことなのである。あるいはマレーシ | 
| アにある世界最大の高層ビルにはイスラム教徒の礼拝室があると聞き、文化の | 
| 違いを感じたりもする。いずれにせよ、我々が「生きた」アジアについてもっ | 
| と目を見開いて行かねばならないと言うことである。相互理解は違いを認識す | 
| ることから始まるのである。 | 
| 小檜山賢二氏は次のように続ける。「言葉にならない文化を共有できる人を | 
| 真の友という。「分からない奴はほうっておけば良いのだ」と我々「蝶屋」は | 
| 自嘲気味に呟くのである。」 | 
| 互いに文化を認め、共有しあい、生産的な関係を築こうと努力しはじめた時 | 
| 、アジア諸国は日本の真の友となるのであり、日本はアジアの一員となるので | 
| ある。 |