| 情報、知識、知恵、目的 |
| アジサイ | の | 谷 | の広場 |
| 拓馬 | / | ねき | 中2 |
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| src="http://www.mori7.com/izumi/ib/ib990901/img19991109203246.gif"> |
| ただ新聞やテレビの情報を右から左へ流す人がいる。また、それらの情報を |
| 自分の知識としてストックする人がいる。そして、自分の人生経験から、知恵 |
| を導き出し生きていく人がいる。この中で人間的に魅力があるのは、無論、三 |
| 番目の知恵人である。その人から知恵の言葉を聞いた時我々ははっとする。故 |
| に情報、知識、知恵のなかで、一生涯心に残る言葉というのは、知恵のことば |
| なのである。 |
| 当然、情報というもが不必要というわけではない。その証拠に、今日の情報 |
| 伝達方法の目覚しい進化によって人類は急激に進化してきた。手紙によって確 |
| 実性が、電話によってさらに早さが、パソ通やインターネットなどで、今度は |
| 多さが得られるようになった。人類の進化は、情報の進化のあってこそなので |
| ある。だが、情報はあくまで情報、それらを的確に見極める力が必要不可欠な |
| のである。前途したように、情報を右から左へ流しているだけであったら、単 |
| なる情報家であり、自分の人生になんら進歩を見出せない。だから、情報その |
| ものだけがあっても意味がないのである。知識にも同じようなことが言える。 |
| かといって、知恵を意識しすぎてもだめである。知恵というものは、自分の |
| 人生経験から導き出すものである。それを意識的に引きずり出すことは無理で |
| ある。それに、古い知恵というものは、時として、行く手を阻むこともある。 |
| 例えば、山に生きていた人が都会にきたらどうなるか(多少大げさではあるが |
| )。山にいた時の「第六感」は全く意味を持たない。都会という時間と法に縛 |
| られた世界では、感覚を研ぎ澄ます必要もなく、それどころか、その知恵は、 |
| 障害となる。だから、知恵というものは、情報と知識によって今を的確に見極 |
| めることで、効力を発揮するのだ。 |
| この両方があってこそ、初めて知恵を自分の人生に生かすことが可能になる |
| 。知恵を自分の人生に取り入れることは、非常にすばらしいことである。自分 |
| の考えた、他人からの受け売りでない自分だけの考えや、行動。これは、それ |
| だけで価値を持っている。それを人生にジャンクション(融合、結合)すれば |
| 、必ずよくなるはずである。知恵という手段で、人生を豊かにしよう、という |
| ことである。そして、知識も手段になる。知恵と知識という二つの手段がある |
| ということである。知識も知恵も手段である以上、目的にするには適していな |
| い。あくまで目的に達するための手段なのだ。だから、がむしゃらに勉強して |
| 知識を得て、それで満足していては、せっかくの知識がだいなしである。「知 |
| 識がはしごを作ったのではなく、二階に上がりたいという熱意がはしごを作っ |
| たのだ」とは、昔の人はいいことを言ったものである。知識があるから、はし |
| ごを作った。という、手段が先行しているのではなく、二階に行きたいから、 |
| はしごを作る。はしごを作りたいから、知識を養う、というように、目的が先 |
| 立って初めて、手段を見出せるのだ。ただ知っていることや知ったことを並べ |
| るのではなく、それらをどのように知り、また、どのように役に立たせるかと |
| いう目的のもとに、情報を頭に入れ、知識を考えて、知恵を導き出し、人生の |
| 役に立たせていこう。 |