input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. すべての人間社会には動物がかかわってきた。その社会に存在する動物には、まず第一に、常に犬が含まれる。そして犬と私たちとのつきあいは信じられないほど大昔からあるように思われる。私たちはずいぶん前から一緒に暮らし互いに助けあってきた。しかし犬以外にも、トナカイからキツネ、象から鵜にまで及ぶきわめて多種多様な生き物が、ずっと昔から飼い慣らされてきた。もちろんそういった生き物は主として利用するために――物を引かせたり人間が乗ったりするために、肉や乳や毛や皮を取るために、羽毛や卵を取るために、また有害な小動物の捕獲者あるいは釣や狩猟の手助けとして――そこに存在していた。こういった形の私的利用からは、個人的あるいは感情的な関係はまったく生まれなかったであろうと考えることは、原則として理にかなっているように思われる。何も知らない立場からだと、人は自分の動物を単に機械とみなすだろうと私たちは思ったかもしれない。哲学者によってなされた「人」と「もの」との明確な区別を課し、あらゆるものを単純に二者のいずれかであると考えるべきだと主張するなら、動物はまったく明快に物とみなされると、私たちは思ったであろう。しかし実際は、もし人々が動物をこのように見ていたとしたら、動物の家畜化はおそらく決してうまくいかなかったであろう。動物は、精一杯頑張っても、機械のようには反応できなかっただろう。動物が慣らされたり家畜化されたのは、暴力という恐怖を通してだけでなく、自分たちに向けられる社会的合図を理解するようになることによって、自分たちを飼い慣らす者たちと個々の絆を作り上げることができたからである。動物たちは人間に服従することを自分で学んだ。このことができたのは、自分たちを慣らす人間が社会的生き物であっただけでなく、動物たち自身も同様に社会的生き物であったからだ。 首尾よく家畜化された生き物はみな、元来社会的な生き物であった。彼らは人間を信頼し人間に服従するようになったが、その信頼と服従は、野生の状態では親に、そして成長してからは仲間あるいは群れのリーダーに向けて発現させたであろうものであった。自己の種族の社会的合図に反応する能力が生来まったくなく、それゆえ外部からの社会的合図に接触できないため、おそらく同じ程度の知能をもっているのに飼い慣らすのがまったく不可能な動物が他にいる。何種類もいる野生の猫はわかりやすい例である。その最も幼い子猫でさえ、飼い慣らすことがまったくできない。エジプト猫はすべての飼い猫の祖先だが、小型の猫群の中では人間と他の猫の両方に対する親しみやすさにおいて他に並ぶものがない。エジプト猫は紀元前およそ1600年ころよりも前には飼い慣らされていなかったと思われること、そしてその後急速に絶大な人気が出たことは興味深い。エジプト猫が紀元前およそ1600年ころになって初めて発見された――そうだとしたら奇妙な話だが――のでなければ、その時点で実際に突然変異が生じて、他者により反応しやすい性質が生じたのかもしれない。
しかし猫は、周知のとおり、まだ犬とまったく同じようには友好的でも従順でもない。サーカスの人間は普通、猫を訓練しようとして時間を無駄にすることはない。同様に、馬、ロバ、ラクダおよびその仲間の社会的性質には、身体的外見同様、重要な違いがある。彼らは種としても個としても、訓練に対してさまざまに反応する。つまり生物機械として単純に扱うことはできないのである。馬やロバやラクダをうまく使いこなす人は、単に何らかの抽象的、神秘的な人間の優越性によって使いこなすのではなく、彼らと社会的にふれあうことによって――つまり、彼らの世話をし、それぞれの動物の観点からみるとさまざまな事柄がどのようにみえるかを理解するようになることによって――使いこなすのである。その観点の存在を無視したり疑ったりすることは、飼い慣らそうとする試みにとっては致命的なものになるであろう。動物の家畜化の背景に従来からある前提は、コウモリであることには何らかの意味があり、同様に馬あるいはロバ、さらにこの馬あるいはこのロバであることにも意味があるということである。対照的に、石や車やさらには飛行機であるといった経験はない。そういった経験をもちうる生き物はないのである。したがって、私たちはこの問題について悩む必要はない。
私の意見は、これは従来からある前提だということである。今日の動物行動学の研究者の中には、それが誤った前提であり、それに当然反論できると考えている者もいる。私のこの意見は、単に彼らの意見は最近の詭弁的なものだということである。それは、動物が家畜化されてきた何世紀もの間当然のこととみなされてきた意見ではない。もしインドの農夫が、むちで打たれている牛はそれを感じることができるかどうか聞かれたら、その農夫はたぶん、「もちろんできますよ。でなければどうしてわざわざ打ったりしますか」と答えるだろう。乗馬の達人は、自分の馬に1個人として対応し、馬の感情の動きに従い、物事がどのように馬に影響を及ぼすだろうかとか、馬は何をこわがり、何に引きつけられるのかといったことを理解する際に想像力を使う必要があるが、それは人間を思うままに動かしたい者が同じことをする必要があるのと同様である。馬や犬は名前で話しかけられ、いわれたことを理解するよう期待される。石や金づちや飛行機に関してこんなことをしようとする者はいない。家畜の扱いが非人間的だったことは一度もない。家畜は「人」ではないということはできる。なぜなら「人」という語は一般にはまさしく生物学上のヒト(ホモサピエンス)を意味するからだ。しかし家畜は、単なる物だとはまったく考えられない。彼らは動物であり、考えうる限りでは、物よりも人間に近い範疇に入るのである。
この点は重要である。というのは、それはむしろ意外に思われること――他種の生物の気分と反応に注意し、ある程度理解できる人間の直接的な能力――を示しているためである。もちろんこの能力は限られている。人間の残酷さをみれば、その限界はある程度明らかとなる。しかし一方では、同様の残酷さが、他の人間を扱う際にもしばしばみられる。どんな苦痛を相手に与えているかという問題は、そのいずれの場合にも答えるのが難しい。無頓着な人間は知ろうとする意欲がないから、はっきりと「知る」ことはないだろう。しかし事実をみれば答えがわかるだろう。これは動物と人間のいずれの場合にも同じように当てはまると思われる。牛や馬を働かせ過ぎる理由は、人間の奴隷を働かせ過ぎる理由とたいていはほぼ同じである。彼らがそのことを気にしているとは思わないとか、彼らはそれに気づくことさえできないのだ、と思うからではなく、人は自分の利益を優先するからなのだ。家畜の扱いは、きわめて一貫性がなく変わりやすいという点において、奴隷の扱いと似ている。人が、その生き物が五感をまったくもっていないと心から思っているとか、その生き物の感情はどんなものなのかまったく推測することができない場合に結果的に生ずるような、一定不変の無関心は通常存在しない。無関心は時たまの中途半端な親切で変質するし、突然の残酷さによっても変わる。そして残酷さは、その犠牲者が明確な感情をもっていないと心から思い込んでいる人間にとっては、何の意味ももちえないものなのである(クッションに対して怒りをぶちまけても、ほとんど慰めにはならない)。家で飼っている豚は、生きている間しばしば本当の誇りと愛情をもって扱われ、その死は心から悲しまれさえするだろう――だがしかしこのことは、豚が食べられるのを防ぐことにはならないだろう。馬やラップトナカイやマサイ族の牛も同じように心からの敬意を受け、大切な仲間として扱われ、1匹1匹大事にされ、いかなる機械や物質的財産とも違った方法で人間の家族の一員となりうる。だがしかし彼らはそれでもなお、人間の目的が要求すれば、適当なときに殺されたり、あるいは虐待されるだろう。しかし同様の不合理な態度が、人間の扶養家族の扱いにもしばしば現れることに気づくべきである。だから私たちは、動物を思いやる能力が本当は存在しないのだと主張することはほとんどできない。他人を扱う際にはもちろん、人は理由なしに自然に気が変わるので、絶えず道徳によって規制されている。われわれは、ただいらいらするという理由だけで祖母や子供を食べてはいけないことを知っている。この規則は動物には人間の場合ほど当てはまらない。この点では、動物は人間よりもずっと自由である。だからといって、動物には意識がないと理解されることにはならない。動物には五感とある種の感情が実際に存在すると信ずることは、ひいては動物をうまく利用するためにも不可欠なのである。 ( n )
問題のある子供がいた場合、専門家は専門的な知識によって、「それは学習障害です」とか「それは自閉症です」などとレッテルをはって済ませてしまいがちです。しかし、肝心の子供を救うのは、そういう専門家の知識ではなく、生身の人間の接触であることが多いものです。