input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. 「医師は告知すべきか」という、しばしば議論される問いは、患者が死に近づいていることについて医師はすべて知っているが患者は何も知らない、という誤った含みを伝えてしまいやすい。したがってその結果生じる討論や論争は、ピントがずれていたり現実の問題には少ししか触れていない場合が多い。医師が何でも知っているなんてとんでもない。患者の容体は死を待つばかりだと確信していても、間近にならないかぎり、死亡時期を正確に予想できることはめったにない。その上、患者も何が起ころうとしているのか気づいていないわけではない。多くの患者が、自分の死が近いことをはっきりとわかっているのである。
告知をするかしないかを選ぶというよりもむしろ、ほかのことを問いかける方が有益だろう。われわれは患者を励ますべきか、それとも死についての話題に至るような事柄を話し始めた患者から真実を隠すべきなのか。死についてどの程度率直に話すべきなのか。患者は万事順調にいっているということだけを言ってもらいたいのじゃないかとわれわれが感づいたならば、嘘をつくべきだろうか。病気が致命的なものなのかそうでないのかを真剣に知りたがっている場合、患者の推測が間違いないことをはっきりさせるべきなのか。単刀直入な質問がない場合、真実を語る義務がわれわれにあるのか。問いかけてくる者たちに、死が近いことを否定するのは正しいことなのか、あるいは知りたいという意向を示さない者に告知するのは間違っていることなのか。死の自覚が徐々に増すようにすべきなのか、あるいは死の病に冒されているものは、死をより甘んじて受け入れられるように、このことを早期に知るべきなのか。もっと率直に告げるというのなら、それをどう知らせたらいいのか。知らされたらどんな反応をするだろうか。これらの問いはすべて、「医師は告知すべきか」という簡略化しすぎた冒頭の問いの一部なのだが、こうした問いに対し万人に受け入れられる回答はあり得ない。人はそれぞれ異なるし、道徳的信条や通説が判断に影響を及ぼすからである。
助かる見込みのない患者たちに死の可能性について率直に話す十分な理由がある。死が近づいていると強く疑っているのだが、そのことを問いかけたり話し合ったりする機会を全く与えられない病人は、周りの者が口をつぐんだままであればひどい孤立感を味わうことがある。こうした患者は、死が近いという事実を患者から隠したり、事実に触れないでおこうという意図のもと、すべて見せかけの言動をする人たちに囲まれているかもしれない。その結果患者は、だまされているという意識をもつのだ。もしみんなが、患者の間近に迫った生からの旅立ち、つまり、自分たちにとっての永遠の別れが絶対に起こらないというふりを続ければ、患者は他人との全く心からの会話から生じる精神的な安らぎをどうして得ることができようか。われわれは死を迎えつつある者たちに告知する義務があるという意見には、物質的根拠と精神的根拠がある。医師が患者に死が近いという事実を隠せば、患者は家庭の身辺整理をしそびれるだろうし、死が近いかもしれないとわかっていれば考えもしないような投機的事業を始めるかもしれない。死が近い人物には警告しなければならないという医師の法的責任は、討論の問題となりそうだ。しかしたいていの医師は、死が間近な人に何を告げるべきかを考えるときに、人がどれほど先まで身辺整理をする必要があるのかを心に留めているだろう。死に対して準備をしておくのはよい考えです、と助言することは、この効用に役立つだけではない。慎重にいえばそれは、もっと知りたければ病人は医師とさらに話し合いができるというほのめかしでもあるし、あるいは、それはただ額面通りに受け入れてもよい助言なのである。
人が自分の死が近いことを知る精神的必要は、末期段階では物質的問題よりも重要だろう。死が近い人は、突然、宗教信仰に走ったり、信仰を取り戻したりすることが多い。死が近い人は重病の中、ひょっとしたらいつもとはずいぶん違う声で、助けを求めて祈ったかもしれない。回復が望めそうになければ、宗教界の大多数の人たちは、患者が永遠の生命の準備ができるようにこのことを知るべきだと強く感じている。
時には、病気の結末に関する予想をめぐって、患者に率直に物を言う必要が増大する。というのも、興奮状態の短い希望の時期に続いて、絶望的にみじめな長い期間があるからである。患者は、不当な全く望みのない治療に努力とお金を浪費し、結局、有名な数々の万能薬が効かないときにひどく失望することになるだろう。患者が重病で、病状が悪化していると思われるのに、医師は効果のない治療に満足しているように見えるときは、治癒の機会が失われていくように感じられるかもしれない。このため患者は挫折感を抱いたり、必死になってほかの医者巡りをするかもしれない。もちろん、評判の高い人物からのまた違った意見(セカンドオピニオン)は、関係者全員に大いに役立つだろう。これによって、重要な可能性が無視されていないという確信が得られるだろう。むなしく治療を求めている、悩みをかかえた患者が、病気の性質とどれくらいの希望が望めるのかということについて、医師とともによりよい理解に達すると、自信を取り戻し、さらに大きな安らぎが得られるだろう。
死が近い者には率直に物を言うほうがよいということを裏づけるこれらの主張にもかかわらず、死について患者と話したがらない医師は多い。そういった医師は、患者の大部分は安心を得るため以外ではその話題を出すことを望んでいないと感じているし、真実はおそらく患者の心を傷つけることになるだろうとも感じている。この一般によく見受けられる医師の態度は、たとえ苦悩を避けるために「罪のない嘘」が意図された場合でも、意識的にその話題を避けたり、医師に信をおいている患者をだましたりするのをかなりためらうということと、あまり愉快なことではないが、結びついている。しかし率直に物を言う医師の中にも、死が近いと告げられることは患者にとってなんの役にも立たないという信念を明らかにしている者がいる。それは理論的根拠により簡単に論破できる見解である。しかし、真実がかなりの苦痛を生む可能性があるとき、また、思いやりから出る一部分だけ真実の言葉が死に至る進行を実質的に変えないとき、そして死が近い人間が自分は回復するだろうということを聞きたいときには、嘘をつくことや時々だけでも作り事を教えることについて反対するのには、かなりの信念が必要となる。死が近い人たちの世話をする正直な人の多くも、そうするのは避けたいと常に思っているやり方で、患者から真実を隠していることに気づくのである。
実際、回復の見込みがないと患者に言う医師は比較的少数なのである。例えば、医師の意見に関してのある調査で、勤務医と開業医の200名を越える集団に、致命的だと判定される可能性が非常に高いガンにかかっているとわかった患者に告知するのは賛成かどうかと質問した。こう定義された患者の中にはもちろん、死はまだ先の話で、全体的にまずまずの健康状態にあった早期に、病気の徴候が診察された者も含まれているだろう。そういった患者は、この段階では自分の病気が致命的でないかと疑う理由はほとんどないだろうから、もし医師が実際に告知したとしたら、何か予期せぬ悪いことを知らせることになるだろう。これらの(調査に協力した)医師の88%は、患者に告知しないだろう(と答えた)。もっとも中には例外を設ける(と答えた医師もいる)。患者の質問は通常安心を求めてのものだとこれらの医師は感じている。残りの12%は、ガンにかかっていることを患者に通常告知する、特にもし患者が知的で情緒的に安定している場合はそうするだろう(と答えた)。大半の医師が、身内には告知すべきだと感じており、自分が知っていることの負担を分かち合えるとうれしいと答えている。ところで、この同じ医師の60%もが、もし自分が同じ致命的な種類のガンにかかっていたら、告知してもらいたいと言ったのである。情報を与えることと受け取ることとの間にある意見のこの不一致は、医師自身のより大きな精神力と責任感に基づくものだ、と医師は説明した。そうかもしれない。しかしその態度は専門外の人たちと医者に同様に見受けられる、感情面からそうすることに決めた態度である可能性の方が高いのである。このことは、これらの医師が他の医師のガンを治療する際、一般のガン患者の場合と同様、彼らにも率直に告知しないという事実によって示された。
病気が致命的なものかもしれないことを病人に対して認めたがらないのは、医師に限らない。もしガンにかかっていたら告知してほしいという人々の希望調査によって、自分自身は告知を望むが、同じ状況にある他人に知らせるのはあまり勧められないと思っていることがわかった。英国の末期患者治療に関する詳しい調査によると、死亡した患者の親族や友人は、本当の病状について死にゆく本人よりも多くのことを知っているようであり、もっと多くのことを敢えてもらうことを期待していた。これらの患者のおよそ半数が自分の病状を知っていた。この調査で質問を受けた者の多くが、死の床にある者が、自分の死をある程度知っている、あるいは知らないことを認めたが、患者は自分の死に気づくよりも、知らないままの方がよいという意見の方が強かった。結婚した人たちが配偶者の致命的な病気に対処する方法について調べた最近の調査によると、たとえ暗黙の了解はあるにせよ、お互いの病状について率直に話し合う者は4分の1もいないようである。 ( n )
内容:固有名詞は、言語が社会的なものであることを示している。子どもが社会生活を始めると固有名詞を通じて、自分がその社会に所属するという意識を植え付けられる。固有名詞は、自分が自分であるとともに、他方でどこかに所属するものであることを示す原理を持っている。その意味で固有名詞は政治的である。