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級:★   山:nnga   年:★   月:05   週:3  苗:nnga
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題名:ロボットは人間か(感)

感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。

課題の長文
 【1】ロボットは人間かと問うのは、ロボットにも心とか意識といったものがあるかと問うことである。うまそうに食事をしているロボットは、本当に空腹を感じ、食欲をもち、そして味わっているのだろうか、あるいは単にすべてただ「振り(ふ )をしている」だけなのだろうか。【2】歯医者の椅子(いす)の上でうめき声をあげているロボットは本当に痛がっているのだろうか。ただ痛そうな振り(ふ )をしているだけではないのか。
 だがこの問いに答える方法があるだろうか。ロボットに「本当に痛いのか」と尋ねれ(たず  )ばもちろんのこと、「間抜け(ぬ )たことを言うな、痛いったら痛いんだ」と答えるだろう【3】(そしてその夜、日記に、差別待遇(たいぐう)をうけて心が痛んだ、と記すかもしれない)。嘘(うそ)発見器につないでも人間の場合とは違う(ちが )反応であろうがともかく嘘(うそ)をついているときのロボットとは違う(ちが )正常な反応を示すだろう。【4】切開をすれば人間の神経繊維(せんい)と比べれば不細工な金属線があり、それにパルス電流が流れているのが検出されよう。そして、学のあるロボットならば、それがロボットの痛覚神経なのだと言うだろう。結局のところ決め手はないのである。【5】それは現在の科学や技術の段階では決め手はない、というのではなく未来永劫(みらいえいごう)ないのである。痛いとかうまいということは細胞(さいぼう)の興奮とか神経伝導などとは全く別種のことだからである。だからそれを生理学的なあるいは工学的な検査法で検出しようというのが土台そもそも的外れなのである。(中略)
 【6】私の知っている痛みはただ私自身が感じるものとしてのものである。それを他人に移植する、つまり他人がそれを感じると想像することは実は不可能なのではないか。実数の間の大小を複素数の間に移植したり、将棋(しょうぎ)の王手や成り駒(こま)を碁(ご)に移植することが不可能なように。【7】私は他人が私の経験に似た経験をしていると想像しているつもりでも実は想像しているのはその他人になり変わった私自身なのではあるまいか。そして想像の中であっても私は終始私であって彼(かれ)ではない。私に想像可能なのは、彼(かれ)の立場にある私の痛みであって彼(かれ)の痛みではない。(中略)
 【8】人が激痛でうずくまり冷や汗(ひ あせ)を流している。だが正直なところ私自身は少しも痛くない。痛くもかゆくもない。だが私は心痛す∵る。しかし私は彼(かれ)が痛い、ということを想像していはしない。その想像は不可能だからである。【9】私が想像しているのは彼(かれ)になり変わった私の痛みである。しかしだといって私はこの想像上の私の痛みに心痛しているのではない(想像された痛みは少しも痛くない)。そうではなく私の心痛の対象はまさに彼(かれ)なのである。【0】
 この一見まことに奇妙(きみょう)な状況(じょうきょう)、この状況(じょうきょう)をわれわれの言葉では「彼(かれ)が痛がっている」と言うのである。この状況(じょうきょう)の中で、彼(かれ)になり変わった想像上の私が、彼(かれ)を眺め(なが )ている私と苦しそうな彼(かれ)との間を飛びかっている。そして陽子と中性子の間を飛びかう中間子がその陽子と中性子とを固く結びつけるように、この飛びかう想像上の私が現実の私と彼(かれ)とを「人間仲間」として結びつけているのである。だからこの飛びかいが失われたならば私にとって彼(かれ)は「人」でなくなる。そして私の方は離人症(りじんしょう)と言われるだろう。
 幸い今のところ私は離人症(りじんしょう)ではない。それは私が生まれてこのかた長年人中で暮らしてきたおかげで身についた態度なのである(狼(おおかみ)少年ならばこの態度を持たないだろう)。そしてもし私が長年ロボットと人間らしい付き合いを続けたならば、ロボットに対しても恐らく(おそ  )この態度をとるだろう。そのとき私にとってそのロボットは「人」なのであり、心も意識もある「人間」なのである。
 これはアニミズムと呼ばれていいし、むしろそう呼ばれるべきであろう。木石であろうと人間であろうとロボットであろうとそれら自体としては心あるものでも心なきものでもない。私がそれらといかに交わりいかに暮らすかによってそれらは心あるものにも心なきものにもなるのである。それに応じて私もまた「人間」になるのである。

(大森荘(もりしょう)蔵『流れとよどみ』による)

項目表

項目表を参考にして、作文・感想文を書いてください。 項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森 
項目表 ガジュマロ の苗 高2年 4~6月
目標:社会科学のテーマを書く書き方を身につける
 ★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
第 1 段落項目キーワード説明
構成 ○ 題名の工夫題名の工夫 <<構成>>「○○な○○」「○○の○○」のように工夫
構成 ○ 四段落構成 大きく四つぐらいの部分に分けて書く
構成 【】★ 書き出しの工夫書き出しの工夫 <<構成>>会話・色・音・情景で書き出す
主題 【】★ 社会問題の主題問題 社会問題 <<主題>>私はAが問題だと思う
             ↓
第 2 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の原因一原因 背景 <<構成>>…の原因としては第一に
題材 【】★ 体験実例体験 私 わたし 僕 ぼく <<題材>>自分らしい体験実例を書く
表現 ○ たとえまるで みたい よう <<表現>>まるで…のよう
主題 ○ 途中の感想 途中で主題に関連した感想を書く
             ↓
第 3 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の原因二原因 背景 <<構成>>…の原因としては第二に
題材 ◎ 自然科学実例・長文実例自然 科学 長文 <<題材>>自然界の例・長文実例
表現 【】★ ユーモア表現笑 爆 ユーモア <<表現>>ユーモアのある表現(笑)
表現 ◎ ことわざの加工ことわざ <<表現>>ことわざや名言や流行語を加工する
             ↓
第 4 段落項目キーワード説明
主題 【】★ 反対意見への理解確かに <<主題>>確かにBもよいが、しかしAが
表現 【】★ 自作名言ではなく でなく 自作名言 <<表現>>「○○とはAではなくBである。」という形の文
主題 【】★ 社会問題の主題問題 社会問題 <<主題>>私はAが問題だと思う
構成 ◎ 書き出しの結び書き出しの結び <<構成>>書き出しのキーワードを使って結ぶ

字数 ★ 600字以上
表記 ○ 決めてくる、読みかえす書くことを決めてくる、書いたあと読み返す
表記 ★ 制限時間75分書き始めから書き終わりまで75分で
表記 ○ 構成メモ作文を書く前に構成メモを書く
表記 ○ 漢字を使う、ていねいに書く習った漢字を使いていねいに書く
表記 ○ 段落三文段落の目安は三文ぐらい
表記 ○ 一文一点読点は1文に1〜2点を目安に
表記 ○ 常体で書くした・だった・であるなどで書く練習
表記 ○ 誤字一ヶ所以内一つの作品に誤字は一つまで


課題のヒント

input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. 科学における動物行動研究の最大の障害は、擬人(ぎじん)観を避け(さけ)たいという強い願望である。擬人(ぎじん)観とは、人間の性質――思考、感情、意識、そして動機――を人間以外のものにもあてはめることを意味する。天気が自分たちのピクニックを台なしにしようとしているとか、木は友だちだと主張するとき、彼ら(かれら)は擬人(ぎじん)化しているのである。天気が自分に冷たくしているのだと信じるものはほとんどいないが、動物についての擬人(ぎじん)観はもっと多くの人が抱い(だい)ている。科学界の外では、ペットや野生動物の思考や感情について述べることは普通(ふつう)である。しかし、多くの科学者は、動物が苦痛を感じるという考えですら、擬人(ぎじん)観の中でも最悪の過ちであるとみなしている。
 科学は、動物に対する擬人(ぎじん)化を重大な誤り、罪悪とさえ考える。擬人(ぎじん)化を「犯す」ことについて、科学の世界では普通(ふつう)に語られている。この言葉はもとは宗教的なもので、人間の姿や性質を神にあてはめることを指している。1908年の『宗教・倫理(りんり)学百科』の擬人(ぎじん)観の項目(こうもく)には「感覚的な対象であれ思考の対象であれ、対象を人間とみなす傾向(けいこう)が擬人(ぎじん)観の始まりである。未開人だけでなく動物や子供にも見られる」と書かれている。その考えをすすめれば、人間は自分の姿に合わせて神を作るということになる。かくして、あるドイツ人哲学(てつがく)者は、かつて神はわれわれが人間の本質を天のスクリーンに映したものにすぎないと述べた。科学の世界では、人間の性質を動物にあてはめるのは原理にそむくことを意味する。人間が神のようになれなかったように、動物は人間のようにはなれないというのだ。
 ある科学者を擬人(ぎじん)観論者だと非難することは、信頼(しんらい)できないという厳しい批判を加えているということである。擬人(ぎじん)観は種の混同であり、主体と客体との区別を忘れているとみなされる。思考や感情が、その能力がないとわかっている生き物にあると考えるのは、実際、問題であろう。しかし、動物に喜びや悲しみといった感情を与える(あたえる)ことは、動物はそんな感情を抱く(いだく)ことはできないことをその本人が知っているとすれば、それは単なる擬人(ぎじん)観的過ちにすぎない。科学者の多くはこう判断しているが、証拠(しょうこ)に基づいているわけではない。実情は、感情が否定されているというよりもむしろ、科学的議論となるには危険すぎるとみなされているということである。その結果、最も著名な科学者でなければ、自分の名声を危険にさらしてまでこの分野について記述しようとしないだろう。したがって、動物に感情があると実際に信じている科学者は多いかもしれないが、そのことを信じていると口に出すのは気が進まないばかりか、それを研究したり、学生にその調査を奨励(しょうれい)したりするのもいやがるのである。彼ら(かれら)はまた、感情の言葉を使おうとする他の科学者を攻撃(こうげき)したりするかもしれない。科学者でない者が科学的に正確であろうとするならば、慎重(しんちょう)に振る舞わ(ふるまわ)ねばならない。
 この科学的正統性に対抗(たいこう)して、あるイギリス人生物学者が、別の動物の生活の中に自分があると想像することは、科学的に正当と認められるし、知識を生み出すものでもあると主張している。彼(かれ)は、人間と自由奔放(ほんぽう)に暮らしているライオンとの間の深い感情的な結びつきについての驚く(おどろく)べき記述を、次のように紹介(しょうかい)している。一般(いっぱん)の人間が、動物のしぐさや姿勢を人間の感情に関する言葉――怒り(いかり)や好奇(こうき)心、愛情や嫉妬(しっと)一の助けを借りて解釈(かいしゃく)するとき、厳格な行動主義者は彼ら(かれら)を擬人(ぎじん)化つまり、動物の皮間の下に人間の精神が活動しているとみているという理由で非難する。これは必ずしもそうではない。動物の生活を真に研究する者は、進化論的考え方をしていなければならない。結局、その研究者とてホ乳類なのだ。行動をできる限り十分に解釈(かいしゃく)するためには、彼(かれ)は人間という同胞(どうほう)だけでなくホ乳類という同胞(どうほう)にも適用される言葉を使わねばならない。そしてそのような言葉は、客観的な単語だけでなく主観的な単語も使わねばならないのだ。たとえば、危険から逃れ(のがれ)たいという衝動(しょうどう)に加えて恐怖(きょうふ)という語を、知識を得たいという願望に加えて好奇(こうき)心という語を、というふうに。
 動物の調教師といった、動物と身近に仕事をする人のほとんどが、動物に感情があることを当然の事実とみなしている。たとえば、象と一緒(いっしょ)に仕事をしている人の話によれば、象の「気分」を無視するときは、明らかに危険を覚悟(かくご)でやっている。イギリスの哲学(てつがく)者がこのことをうまく述べている。
 これら象の調教師は擬人(ぎじん)観を抱い(だい)ているので、象について多くの間違っ(まちがっ)た信念を抱い(だい)ているかもしれないことは明らかだ。しかしもし彼ら(かれら)がこのことを日常の基本的な感情――たとえば、自分の象が喜んでいるのか困惑(こんわく)しているのか、恐れ(おそれ)ているのか興奮しているのか、疲れ(つかれ)ているのか疑っているのか怒っ(おこっ)ているのか一に関してやっているとしたら、仕事にならないだけでなく、死んでしまうことになるだろう。
 擬人(ぎじん)観に対する多くの批判の根底にある真の問題は、実は人間中心主義なのだ。人間をすべての解釈(かいしゃく)、観察、そして関心の中心におくこと、そして影響(えいきょう)力のある人間をその中心におくことによって、科学におけるいくつかの最悪の誤りが生まれてきた。人間中心主義は動物を人間よりも低い生物とみなし、彼ら(かれら)の現実の姿を否定する。それは、人間を動物から区別したい、動物を人間とは違う(ちがう)ものにしたいという強い願望を反映しており、おそらくそれは、人間を進化の段階と食物連鎖(れんさ)の頂点に君臨させておくためだろう。祖先が共適しているにもかかわらず、動物は人間とはまったく別物だという考えは、動物が人間と似ているという考え以上に非合理的である。
 動物を理想化することは、また別の種類の人間中心主義である。もっともそれは決して、動物を低級のあるいは邪悪(じゃあく)な生き物であるかのように扱う(あつかう)ことほどは起こらないが。動物は人間が持ちたいと思う長所のすべてを備えていて、われわれの欠点はひとつも持っていないという信念は人間中心主義なのだ。なぜなら、この種の考えの中心には、人間のよこしまなやり方についての間違っ(まちがっ)た強い考え方があり、それが人間との対比を強調しているからだ。この感傷的な考え方によると、自然界は戦争も殺戮もない場所で、動物は嘘もつかず、ごまかしも盗み(ぬすみ)もしない。この考えは現実によって裏づけることができない。だますという行為(こうい)は、象からキツネにいたるまでの動物で観察されている。アリは奴隷(どれい)アリを持っている。チンパンジーは他のチンパンジーの集団を、外部からの脅威(きょうい)がまったくないのに、殺意を抱い(だい)て攻撃(こうげき)するかもしれない。オスライオンは群れに加わるとしばしば、別のライオンを父親として生まれた若いライオンを殺すのだ。
 人間は昔から、動物は人間と感情的に結びつく潜在(せんざい)能力を持っていると認識してきた。インドの説話の最も古く最も広く知られているものの1つは、カーストの最高位に位置する僧侶(そうりょ)のバラモンとマングースの、生死を左右する結びつきについてのものだ。
 昔、1人のバラモンがある村で妻と暮らしていた。妻にある日男の子が牛まれた。バラモンは貧しかったが、自分の息子をすばらしい宝と考えた。子供を産んだ後、バラモンの妻は川へ沐浴をしに行った。バラモンは家に残り、幼い息子の世話をした。そうこうするうちに1人の小間使いが、重要な神事を執り行い(とりおこない)に宮殿(きゅうでん)へ来てくれと呼びに来た。子供の護衛として、彼(かれ)は、生まれたときから家で飼ってきたマングースを残して行った。バラモンが出かけるとすぐに、1匹(ひき)の蛇(へび)が突然(とつぜん)、子供の方にはって行った。マングースは蛇(へび)を見るや、主人への愛情からそれを殺した。数時間後、マングースは遠くにバラモンが帰って来るのを見た。バラモンを見てうれしくなったマングースは、蛇(へび)の血で汚れ(よごれ)たまま彼(かれ)の方に駆け寄っ(かけよっ)ていった。しかしバラモンは血を見て、「きっとこいつは私の幼い息子を殺したのだ」と思い、怒っ(おこっ)てマングースを石で殺してしまった。家の中に入り、彼(かれ)は、マングースに殺された蛇(へび)と、生きて無事な子供を見た。彼(かれ)は心の底から悲しんだ。妻が戻り(もどり)、何が起こったかを知ると、夫を非難して、「ずっと友だちだったマングースを殺す前に、どうして頭を働かせなかったんですか」と言った。
 この事件がほんとうに起こったかどうかはわからない。この話はまったく有り得ないことではない。マングースはインドではペットとしてよく飼われているし、事実、本当にコブラなどの猛毒(もうどく)種を含む(ふくむ)蛇(へび)を殺す。しかし事実に基づいていようがいまいが、このような話はさまざまな文化で想像力をひきつけている。この話の形を変えたものが、モンゴル語、アラビア語、古代シリア語、ドイツ語、英語、その他の言語に見られる。そこで明らかに示されているのは、動物の忠誠心と明断な判断力、人間のおごりと罪の観念、人間の判断力の弱さに対する自覚である。マングースがわれわれと結びうる深い絆を、われわれが尊重していると信じていただけるだろうか。この民話は、少なくとも人間よりも動物をたたえるものなのであるう。 ( n )
 ロボットに心があるかどうかという話です。心とは相手の側にあるものではなく、相手に共感する自分の心によって生まれると著者は述べています。
 この想像力が不足すると、実際の人間にも心を感じなくなってきます。ゲームのボタンを押す(おす)ような感覚で簡単に暴力をふるうような人は、人間に対しても心を想像できなくなったのかもしれません。
 しかし逆に、アニミズムが行きすぎると、感じなくていいものにまで心を感じてしまいます。新興宗教で手帳を買わせたり壷を買わせたりするところがありますが、それは手帳や壷にも心があると見てしまう人間の錯覚(さっかく)を利用したものなのでしょう。
 どちらを今日の社会問題としても書けると思います。
 第一段落は、状況(じょうきょう)実例と問題提起。「心は想像力によって生まれる。災害や戦禍(せんか)などの困難な環境(かんきょう)に置かれたとき、奪い合う(うばいあう)社会と助け合う社会がある。奪い合う(うばいあう)社会に欠けているものは、相手の心に対する想像力だ。その想像力が今の私たちに欠けてきているように思えるのはなぜだろうか。」など。
 第二段落は、原因1。「その原因は第一に、心の教育の伝統を忘れてしまったからではないか。戦後、道徳教育を押し付け(おしつけ)ないという言葉のもとに、心の問題は個人に属することと見なされてきた。しかし、人間は社会的動物である。親孝行の観念や弱い者への配慮(はいりょ)などは、自然に生まれるものではなく、社会的に教えられることによって育つ。ところが……」など。
 第三段落は、原因2。「第二の原因は、豊かな社会における使い捨て文化の中で、物を大事にする心が失われたためではないか。物にも心があると、昔の日本人は考えてきた。しかし……」など。
 第四段落は、まとめ。「確かに、何を大事にするかという心の問題は、基本的には個人の価値観に属することだ。しかし、社会には共通の了解(りょうかい)事項(じこう)となっている文化がある。その了解(りょうかい)事項(じこう)の前提になっているものは、相手の心に対する想像力だ。私たちは……」。 ( n )
 昨今、少年犯罪の増加、凶悪(きょうあく)犯罪の低年齢(ねんれい)化が言われています。これがゲームなどと直接関連があるかどうかというやや短絡(たんらく)的な議論の結論はともかく、ここでいう「他者への共感、想像力」が、今の子供達に欠けてきているのは確かなような気がします。犯罪を犯した子どもを評して、よく「普通(ふつう)の子」という言葉が使われますが、その犯罪への動機の曖昧(あいまい)さ、犯行の冷静さ、罪悪感の薄(うす)さなど、これが「普通(ふつう)の子」なら、子供全体が異人種になっているかのような錯覚(さっかく)に陥り(おちいり)ます。もちろん、いい歳(とし)をした大人の犯罪も目を覆う(おおう)ものがありますから、問題は日本人全体に共通するものなのかもしれません。

 「現代においては、他人の痛みを感じられない人間が増えていることが問題だ。」(社会問題の主題)。

 複数の原因は、「現代社会では、他者とのかかわりが薄く(うすく)なった。」……地域でのつながりが薄れ(うすれ)ている、子供が集団で遊ばなくなった(危険が増えたことも一因)、ゲームなどの普及(ふきゅう)、塾(じゅく)などおけいこで遊ぶ時間がない、etc。
「核(かく)家族化、少子化が進み、子供が必要以上に甘やかさ(あまやかさ)れ、過保護にされている。」……2004年の合計特殊(とくしゅ)出生率(1人の女性が一生に生む子どもの数)は1.29人。現代の子供は「6つのポケット」を持つという、すなわち、両親、それぞれの祖父母の計6つ。高価な子供服ブランドの成功、etc。 ( h )
 背景として挙げられるのには、「匿名(とくめい)によるコミュニケーションの増加」があるのではないでしょうか。例えば、ツイッター。芸能人のあるつぶやきに過剰(かじょう)反応し、しつこくからむ人がいます。いわゆる「炎上(えんじょう)」ですね。でも、そうやって炎上(えんじょう)させる人の多くは、ツイッター上のハンドルネームだけで、身元を明らかにしてはいません。身元を隠せる(かくせる)ということで、他人に対してより辛辣(しんらつ)になれたり、暴言を吐い(はい)たりしやすくなるる……結果、他人を思いやることができなくなるのではないか……、そんな展開でも書けそうです。
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