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題名:コンピュータにかぎらず(感)
感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。
課題の長文
【1】コンピュータにかぎらず、複雑なハイテク機器を自由に使いこなすということは容易なことではない。しかしだからといって、そういう機器を使いこなせる人は、「機械につよい人」だけだとして、「ふつうの人」や「機械によわい人」は「使えなくて当たりまえ」と考えたり、【2】「使えないのは本人が不器用だからだ」とか「頭が悪いからだ」としてあきらめていたのでは、世の中はちっともよくならないだろう。いつまでも、わけのわからない、使い勝手の悪い製品が市場にあふれ、ごく一部の人たちだけが技術の成果を享受 ( きょうじゅ ) しているにとどまってしまう。
【3】ここはやはり発想を変えて、「使いにくい、わかりにくいのは機械が悪い」と、堂々と言える文化を創り出す必要がある。(中略)
本来は、ほんとうのシロウトこそが「王様」なのだ。そういうフツウの人が「使いにくい機械」は、まさに「機械がわるい」のであり、そういう機械を平気で世に出すメーカーが悪いのだ。【4】しかも、宣伝では「誰 ( だれ ) でもすぐ使える」だの、「何にも知らんけど、やってみよう」などと言い、コンピュータとはおよそ縁 ( えん ) のなさそうな芸能タレントが得意げにコンピュータを操作しているテレビコマーシャルを流しているが、【5】いざ買ってみたものの、どうしていいかわからず、途方 ( とほう ) にくれる消費者が続出しているという事態は、放っておいていいことではない。
今日のコンピュータを中心としたテクノロジーの横暴さを人間の立場から批判し、方向付けを示すということは、実はユーザー(つまり一般 ( いっぱん ) 市民)の責任なのである。【6】「テクノロジーは本来人間のためであり、使いやすく、わかりやすいものであるべきだ」ということ、「間違え ( まちが ) たり、勘違い ( かんちが ) したりすることは、機械のほうを改善すべきことなのだ」ということを、きちんと自覚して、メーカーにうったえ、子どもたちにもはっきり教えておくべきである。
【7】このためになによりもまずテクノロジーの産物としての道具は、すべて人間にとって使いやすく、親しみやすく、身体に「馴染み ( なじ ) やすい」ものであるべきだという考えをはっきり表明し、しっかりほりさげておくべきであろう。【8】このような考え方は、一般 ( いっぱん ) 的にはユーザー中心主義とよばれている。
さて、ここで手始めに、ユーザーの側から道具に対する注文をつけてみよう。∵
道具というのは、ユーザーの勝手な注文としては、少なくとも次の三つの条件を満たしてほしい。
【9】(1)道具は人間の代用物ではないし、人間に「かくあるべし」とか「こうすべきだ」という価値判断の基準を示すものであってはならない。(規範 ( きはん ) 性)
(2)道具は人が何かの作業(当然それは道具の「外」の世界の仕事)を達成しようとしたとき、その達成を支援 ( しえん ) する手段として有効に機能してくれるものでなければならない。(手段性)【0】
(3)道具はしばらく使っているうちに「使っている」という意識がなくなり、それを使って実行している作業そのものに集中できるものでなければならない。(透明 ( とうめい ) 性)
コンピュータが道具だと主張することは、当然これらの条件、すなわち規範 ( きはん ) 性、手段性、そして透明 ( とうめい ) 性の条件を満たすべきだということである。
このような道具観は、青山学院大学の鈴木 ( すずき ) 宏昭 ( ひろあき ) 氏によると、「奴隷 ( どれい ) としての」道具観だという。要するに「主人に命令するな、でしゃばるな、やるべきことは気づかないところでだまってやれ」と注文しているようなものだという。鈴木 ( すずき ) 氏によると、人びとのこういう道具観は、ちょっと複雑な道具になると、「こんなもの使えん」といって投げ出したり、そうかと思うと逆に、「手なずける」ためには、講習会かなにかで「徹底 ( てってい ) 訓練」を受けるしかないと思い込む ( おも こ ) ことになるのだという。
これは、たしかにもっともな主張であるが、ともかく、コンピュータをなんだかすごい「知能」をもった機械だとか、おそるおそる「ごきげんをうかがう」べきご主人さまというようなイメージが根強いときには、「ほんとうは、しょせん道具なんですよ。あなた自身が主人なんですよ」という発想をしてみることから、コンピュータのあり方を考えてみるのは十分意味があるだろう。
項目表
項目表を参考にして、作文・感想文を書いてください。
項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森
項目表 ガジュマロ の苗 高2年 4~6月
目標:社会科学のテーマを書く書き方を身につける
★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
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課題のヒント
input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. 論理実証主義者は、文というものが意味を持つのは、それが真であるか偽 ( にせ ) であるかを定義できる場合に限られると述べた。ここでは、虚偽 ( きょぎ ) の文と意味のない文の区別を保つことが重要である。たとえばもし私が「来年のクリスマスイブは12月27日に当たる」と言えば、この文は間違っ ( まちがっ ) ているが無意味ではない。それが間違い ( まちがい ) であることは、単にカレンダーを見るか、クリスマスイプは毎年自動的に12月24日に当たるという知識によって証明できる。他方、もし「霊魂 ( れいこん ) は物質である」と言えば、実際は何も言わなかったことになる。この文は真実でも虚偽 ( きょぎ ) でもない。無意味なのだ。これは立証することも反証することも到底 ( とうてい ) できないからである。
この点において、哲学 ( てつがく ) の仕事は言語を論理化することだと考えられており、哲学 ( てつがく ) 者は統一言語つまり、万人が使い、理解することができるような構造をした言語という概念 ( がいねん ) を提案したのだった。そういった論理化された言語は、2種類の単語だけで成り立っているだろう。つまり、(A)観察できるものに言及 ( げんきゅう ) する単語と、(B)これらの単語の互い ( たがい ) の関係に言及 ( げんきゅう ) する単語、たとえば、「〜と」「または」「〜でない」などのような単語である。論理化された言語は、明確で正確ではあるだろうが、B・ラッセルがかつて述べたように、明らかに詩には不向きな言語だろう。彼 ( かれ ) の反対意見は、当時彼 ( かれ ) が気づいていたよりも深遠なるものだった。というのは、この論理化された言語こそ、言語哲学 ( てつがく ) の現在の到達 ( とうたつ ) 点、つまり、それ自体はまったく意味を持たない意思伝達手段としての言語だからである。したがって、言語と現実の関係に関して言えば、言語哲学 ( てつがく ) は現実を第一の関心事とし、言語を単なる手段に至らしめたのである。
しかし、正反対の考え方を採用することは可能だ。言語は当然何かを他人に伝達する手段である。つまり、他人との関係を成り立たせ、意思を伝達する手段である。だが同時に、言語は芸術、科学、政治、道徳といった他の所産と並んで、それ自体が文明の所産である。言語には独自の特性と独自の構造がある。言語を通して、文化のパターンが表現される。さらに一歩踏み込ん ( ふみこん ) で、言語を通してこそすべての文化的業績が伝えられるのだから、言語は文明の基本的な創造物だと述べることさえできる。
これは、初めて見て理解するのは簡単ではない。人はまず言語とは関係なくある概念 ( がいねん ) を思いついたり、何らかの物を認識したりし、それから、それを他者に伝えるためにそれに言語という衣装をまとわせたり、あるいはそれを翻訳 ( ほんやく ) する――単語や言語形態に置き換える ( おきかえる ) ――、というのは事実ではない。認識、思考、概念 ( がいねん ) は、それ自体言語的なものである。なんとなれば、思考を方向づけ、概念 ( がいねん ) を形成するのは、言語構造だからである。実際、人間は、言語を通して人間になるのだ。
それゆえ、言語が第一義的に重要なのであり、非言語現象を物や概念 ( がいねん ) であるとまず第一に想定し、それから言語をいわば服のようにまとわせるというのは間違っ ( まちがっ ) ている。我々の世界では、すべての現象は、言語を通して明らかにされるがゆえに、それ自体が言語的なのである。言語は、それが伝える世界と切り離す ( きりはなす ) ことができないがゆえに、単なる伝達手段以上のものなのである。
その結果、言語が不正確であいまいだと主張するのは誤りである。それどころか言語は、少なくともその本来の姿、つまり、この世界で我々人間が相互 ( そうご ) の関係を成り立たせている、文明の基本的創造物として使われている場合は、すぐに明瞭 ( めいりょう ) なものになる。言語を用いて、嘘をついたり皮肉を言ったりして人をあざむくことは可能だが、言語自体がすぐに理解できると仮定されているからこそこうしたことが可能になっているのだ。言語は、本来の姿と違う ( ちがう ) ものとして使われたときのみ、不正確あるいは、あいまいになる。個々の単語には、非常に多くの意味があり、明確な文脈の中に置かれていなければあいまいになるということがわかるだろう。他方、単語が文の中で使われ、その文が明確な状況 ( じょうきょう ) のもとで、ある人間から別の人間に対して使われれば、その単語は完全に正確で明白である。正確な意味を持っているのは文であり、文を基に、文を構成している個々の単語が独自の正確さを帯びるのだ。
子どもが言語を学ぶときとは、その子どもが自分自身と自分の世界を知っていくことを意味する。子どもは、文法を学び語いを習得するというように、外側から言語へ接触 ( せっしょく ) するわけではない。子どもは遊びを通して言語を学ぶ。子どもは言語の中で成長し、世界を発見していくのと同じ早さで言語を発見する。成長していく中で、言語と文化はこのようにして一体化し、同じものになっていく。他の言語を後の人生で学ぶかもしれないが、これと同じやり方で学ぶことは決してない。外国語は外側から学ばれ、学習者の一部になることはない。外国語は、文法、語順、そして語いを通して、ゆっくりと学ばねばならない。外国語に非常に精通し、流暢に話すようになることは可能だが、それが自分の言語になるのはまれでしかない。もし外国語を実際に自分のものにしたら、文化的には別人となってしまうのだ。
言語の文化的意義というこの観点から見れば、言語をそれ自体ひとつの知識源と見なすまであと一歩である。自分が何者なのかを理解するために、つまり、自分の人生観や他者との付き合い方、はたまた自分で定めた目標を自覚するために、我々は言語そのものに耳を傾け ( かたむけ ) ねばならない。文化は言語の中に現れるのだ。
G・ムーアは、疑うことのできない知識があると述べることによって、このことを表現している。たとえば彼 ( かれ ) は、自分のものである体を自分が持っていること、それがある時間存在してきたこと、それが常に地球の表面のかなり近いところにあり、他の物から一定の距離 ( きょり ) にあることを知っているし、体に関して同じ体験をしている人がほかにもいることも知っている。この種のごく普通 ( ふつう ) の文が、基本的でかつ疑うことのできない知識を表している。そして我々はみなその知識に基づいて行動しているし、他のすべての文は(その文が真実となるためには)、その知識に合致 ( がっち ) していなければならないのだ。
L・ヴィトゲンシュタインは彼 ( かれ ) の後期の哲学 ( てつがく ) 体系の中で、言語はゲームであるという見解を採用した。言語はボールにたとえることができる。そのボールを使って人はあらゆる種類の異なったゲームができる。それぞれのゲームには、ゲームというものが仮にも成立するために選手が守らねばならない規則がある。規則を知らずに球技を観戦する者はだれであれ、試合が理解できないだろう。一度も学んだことのない言語を聞いても、一言も理解できないのとちょうど同じことである。我々の生活はこのようにして多種多様な言語ゲームを発達させてきた。ある単語が抽象 ( ちゅうしょう ) 的に何を意味するのかを述べることは決してできない。なぜならば、単語の意味は、どの言語ゲームが行われているかによって決まるからだ。「ジャム」という語は、抽象 ( ちゅうしょう ) 的にはただ「ジャム」という意味しかないが、食料品店へ行って「ジャム」と言えば、この単語は言語ゲームで使われていることになる。この語は私がジャムをひとビン買いたがっているという、店主に対する記号となり、店主はこれを完璧 ( かんぺき ) に理解する。彼 ( かれ ) はジャムのビンを取って包み、私に渡し ( わたし ) てくれるだろう。しかし、これがすべて「ジャム」というひとつの単語に意味として含ま ( ふくま ) れているわけではない。その状況 ( じょうきょう ) と、我々が特定の状況 ( じょうきょう ) でその言語を使って行っているゲームによって、意味として含ま ( ふくま ) れることになるのである。
ある言語を理解するということは、ここでは、その言語を言語ゲームで使用することができるということと同じであり、他人が言うことを理解することは、正しいやり方で応答することができるということと同じである。生きているのだという感覚を抱く ( いだく ) のは、言語と言語が結びついたゲームの中なのである。我々はこのことを自分自身の経験から知っている。もし、自分と異なる職業、あるいは異なる文化背景に属している人々と一緒 ( いっしょ ) にいれば、彼ら ( かれら ) が話していることが必ず理解できるわけではない。たとえ彼ら ( かれら ) が自分たちは英語を話していると言ってもだ。我々は彼ら ( かれら ) のゲームに参加することはできない。そのゲームのルールを知らないし、彼ら ( かれら ) が使っているようにその言語を使うことができないからだ。
この点について、言語が困難な状況 ( じょうきょう ) に陥る ( おちいる ) ときのみ哲学 ( てつがく ) 的問題が生じるという、興味深い提案がなされている。哲学 ( てつがく ) 的問題は病気のようなもの、言語の機能障害のようなものである。どこか具合が悪くなって言語がうまく機能しないのである。それゆえ哲学 ( てつがく ) 的検証は、医学的治療 ( ちりょう ) に匹敵 ( ひってき ) するものとなる。障害の原因を取り除こうとし、それが首尾 ( しゅび ) よく完了 ( かんりょう ) すれば、哲学 ( てつがく ) 的問題は、たとえ解決されていなくても、少なくとも消えているのである。 ( n )
解説:コンピュータは、単なる道具である。道具に人間が合わせるのではなく、人間に道具が合わせるべきだ、というのが筆者の主張です。日ごろコンピュータに振り回さ ( ふりまわさ ) れている人は大いに共感するでしょう。
こういう目で見てみると、世の中には、道具に人間が合わせている例がたくさんあります。自動車の運転で、運転手がいちいちブレーキを踏ん ( ふん ) だりハンドルを回したりするのなども、本当は車が自分で勝手にやってくれるようになればいいのです。そうすれば不注意による事故なども少なくなるでしょう。実はその研究はすでに実際に進んでいます。そのうち、人間のすることは目的地を車に告げてあとは寝 ( ね ) ているだけということになるかもしれません。
昔話で、ベッドの長さに合わせて人間を切って寝かせ ( ねかせ ) たという人の話を知っているかな。知らない場合は、桃太郎 ( ももたろう ) (よく登場しますが)。村を荒らし ( あらし ) まわっている鬼 ( おに ) という環境 ( かんきょう ) に合わせていたのがそれまでの村人でした。桃太郎 ( ももたろう ) は、環境 ( かんきょう ) に人間が合わせるのではなく、人間が自分たちの住みやすいように環境 ( かんきょう ) を変えていくべきだと考えて、鬼 ( おに ) 退治に出かけたのです。環境 ( かんきょう ) を道具と言いかえれば、あてはまりそうでしょ。
以前、中国で、毛沢東 ( もうたくとう ) が「中国語をローマ字にしよう」と大胆 ( だいたん ) な提案したことがありました。その理由は、ワープロなどが使いにくいからというものでした。しかし、当時の中国の科学者たちが、「人間が技術に奉仕 ( ほうし ) するのではなく技術が人間に奉仕 ( ほうし ) すべきである」と反論してその話はすぐに取り止めになりました。 ( n )
主題は単純に「道具に振り回さ ( ふりまわさ ) れている現代人に問題がある」とすればよいですね。では、その背景は何か。第一の背景は「技術革新のスピードに人間が追いつかないこと」。次から次へと新製品が出て来る電化製品。どんどん新機能がついてきますが、そういう最新機器の性能を100%使いこなしている人は果たしているのでしょうか。
第二の背景には、「あまりにも技術に人間が頼り ( たより ) すぎてしまっていること」。スマホは大変便利ですが、「これ一台で何でもできる」と頼り ( たより ) すぎるあまりに、例えば故障したり、紛失 ( ふんしつ ) したりしたときに、何もできなくなってしまうことがあります。先生もつい最近、スマホを変えましたが、旧スマホに写真、電話帳、スケジュール帳などが入っていたために、データ移行するのがとても大変でした。幸い、データはうまく移せましたが、なんらかのトラブルでデータが失われてしまったらお手上げだなあと思いました。普段 ( ふだん ) 、普通 ( ふつう ) に使っている電子機器が突然 ( とつぜん ) 機能しなくなったら、生活自体に支障が出てしまう……そんな頼り ( たより ) 方はやはりよくないですね。
( m )
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