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級:★   山:nnza   年:★   月:05   週:1  苗:nnza
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題名:
本文:



題名:劇は、つねに宗教的な(感)

感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。

課題の長文
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
 【1】ハマーショルドの日記はきわめて特異である。国連事務総長という要職にあった人の、またその職責にひたむきに献身(けんしん)していた人の手になるものでありながら、職務にかかわる記述が一行としてない。【2】それを読んだだけで書き手の職業を言い当てるのは、おそらく不可能だろう。世俗(せぞく)的な属性だけではなく、時間も空間もすべて超越(ちょうえつ)しているかに見える。時折現れる日付さえ、この印象を拭い(ぬぐ )去りはしない。【3】それはそうだろう。この日記は彼(かれ)と「神とのかかわり合いに関する白書のようなもの」(友人のレイフ・ベルフラーゲ宛(あて)の遺書)なのだから。
 【4】神との対話は透徹(とうてつ)した自己省察となる。もし神の視線が自分に照射されたなら明るみに出されるのは何か、それを測り尽くす(つ  )とでも言うかのように、ハマーショルドは自分の弱さと卑小(ひしょう)さを見つめ続けた。【5】「それから目をそらしたなら、たちまち自分の行動の誠実さを脅かす(おびや  )ことになるから」(一九五七年四月七日)である。傲慢(ごうまん)さや自己憐憫(れんびん)、怯懦(きょうだ)や取るに足らぬ自尊心を徹底的(てっていてき)に排除(はいじょ)した。【6】彼(かれ)にとって誠実な生の営みとは、存在にまつわるそれらの夾雑(きょうざつ)物をぎりぎりまで削ぎ(そ )落とすことだった。日記中に引用されている次の文章が、そうした彼(かれ)の思考をあますところなく伝えている。
 【7】大地に重みをかけぬこと。悲愴(ひそう)な口調でさらに高くと叫ぶ(さけ )のは無用である。ただ、これだけでよい。
 ―()―()大地に重みをかけぬこと。(一九五一年・日付不明)
【8】「大地に重みをかけぬこと」とは、言いかえれば自己放棄(ほうき)つまりおのれを空しくすることを意味する。この自己放棄(ほうき)(ないしは自己滅却(めっきゃく))という言葉はしばしば日記の中で用いられており、ハマーショルドの思想的中心点の一つだと言ってよい。【9】それは夾雑(きょうざつ)物に惑わさ(まど  )れたり、自分自身にのみ拘泥(こうでい)したりせぬことである。こうして彼(かれ)は、精神の高みに飛翔(ひしょう)する瞬間(しゅんかん)のために準備を続けた。【0】∵まさに魂(たましい)の彫琢(ちょうたく)とでも呼ぶほかはない。
 何がこれほどまでに、彼(かれ)を魂(たましい)の彫琢(ちょうたく)に駆り立て(か た )たのだろうか。この人の「憧れ(あこが )」は何であったのか。ここで私たちは、「よき死のための成熟」という一つの答えに出会う。
「死はおまえから生に捧げる(ささ  )決定的な贈物(おくりもの)たるべきであり、生に対する裏切りであってはならない」(一九五一年・日付不明)、そう彼(かれ)は自分に語りかけている。そこに見られるのは、漠然と(ばくぜん )した死への恐怖(きょうふ)などではなく、躍動(やくどう)する生の営みの果てに積極的に死を迎え入れよ(むか い  )うという、確固たる姿勢である。みずから命を絶つ諦(あきら)めでもなければ、他人の生を踏みしだく(ふ    )傲慢(ごうまん)さでもない。
 死を「生に対する贈物(おくりもの)」にすべく彼(かれ)が求めてやまなかったのは、「成熟」ということだった。一九五三年四月七日、国連事務総長に就任した日の日記には、くり返しそれへの渇望(かつぼう)が書かれている。たとえば、「成熟―()―()なかんずく、子供が仲間と遊んでいるときのように、現在の瞬間(しゅんかん)に明るく澄ん(す )だ無心さで遊び、仲間と心がひとつになりきって影(かげ)ひとつささぬ境地」。遊びほうける幼子との結びつけが意表を衝く(つ )が、この「無心さ」が、実は自己滅却(めっきゃく)と同じものであると考えるならさほど不思議はない。こうして彼(かれ)は、国連事務総長という、「世界で最も不可能な仕事」(初代事務総長T・リー)を、気負いも昂(たか)ぶりもせずに、成熟と自己滅却(めっきゃく)という自分自身の原則を静かに再確認することだけで始めたのだった。

(最上敏樹()『国境なき平和に』による)∵
 【1】劇は、つねに宗教的な秘儀(ぎ)のうちに、その起原を置いている。ギリシア劇においては、そのことが明瞭(めいりょう)に看取される。その宗教的背景が、シェイクスピア劇では、一見うしなわれているかのように見えるのだ。(中略)
 【2】もちろん、かれの詩的天才を疑うものはいない。またやや通俗(つうぞく)的ではあるが、その作品の劇的効果は否定しえない。それにしても、近代的な合理主義からいえば、かれの作劇術は、あまりにも粗雑(そざつ)にすぎ、実証的な写実主義からいえば、心理的リアリティを欠いている。【3】その精神や思想にいたっては、私たちはシェイクスピアのなかに一個の人間である作者の像をみとめることができない。つまり、かれは近代的な意味における芸術家ではない。ひとびとはいうであろう、ハムレットやリアの主張を読みとることができても、作者の主張はどこにも読みとれない。作者はどこにいるのか、と。
 【4】そういうひとたちに、私は答える。すでにいったように、私は個人の主張などというものに、もはやなんの興味も感じない。個性や心理の、いかに微細(びさい)な分析(ぶんせき)も、いまの私にはなんら新鮮(しんせん)な、驚異(きょうい)や喜びを与え(あた )ない。【5】すべてはわかりきったことだ。それらは季節に開花する路傍(ろぼう)の花ほどにも、私の眼を惹か(ひ )ぬであろう。が、作者の思想と現実の分析(ぶんせき)とがなくして、現代文学はなりたたぬ。問題は、それが路傍(ろぼう)の花にどう道を通じているかである。【6】私ばかりではあるまい。私たちが求めるのは博物学でも博物学者でもなく、生きた花なのではないか。シェイクスピアから私たちが受けとるものは、作者の精神でもなければ、主人公たちの主張でもない。【7】シェイクスピアは私たちになにかを与えよ(あた  )うとしているのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとしているのである。それが、劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものなのだ。
 【8】宗教的な秘儀(ぎ)は、つねにそのことを目的としていた。見ることを許された特定のひとたちを、眼前に「おこなわれていること」の世界に引きずりこむのが秘儀(ぎ)の目的である。いわば路傍(ろぼう)の花が私たちを季節のなかに引きずりこむように、奥儀(おうぎ)が啓示(けいじ)されるのである。(中略)【9】サルトルが「嘔吐(おうと)」のなかで女にいわせている「∵完璧(かんぺき)な瞬間(しゅんかん)」というのも、じつはそういうものを背景にしなければ成りたたぬのである。対象とのあいだに、違和感(いわかん)を見ず、自己も対象も部分のままでありながら、全体に抱き(いだ )かかえられている瞬間(しゅんかん)、それを女は欲した。そして失敗した。【0】相手の男が協力しなかったからである。ということは、女は男のまえで、路傍(ろぼう)の花にたいするようにすなおに自分の違和感(いわかん)を棄て(す )さることができなかったということだ。のみならず、女は相手にそれを棄てる(す  )ことを求めていたのである。いいかえれば、自分が主役を演じうるように、相手がふるまうことを期待していたのである。もし、個人が、個人の手で全体性を造りあげようとすれば、自分がその中心になり、相手を自分のまえに跪か(ひざまず )せるまでは、とどまることを知らぬのである。「嘔吐(おうと)」のなかの女は、たとえ受身の端役(はやく)においても、主役を批判し制御(せいぎょ)しようとしているではないか。
 対象を路傍(ろぼう)の花にかぎれば、それは逃避(とうひ)にしかならぬ。が、自然のみを対象とすることも、今日ではすでに逃避(とうひ)である。天災と戦おうとする科学は、私たちの自然にたいする支配慾(よく)の現れかもしれぬが、その裏で、もし私たちが自然との調和だけを心がけるとしたなら、やはりそれは逃避(とうひ)であろう。同様に、階級や戦争の悪を根絶しようとする試みも、私たちのあいだにあっては、容易に逃避(とうひ)に転化しうるのだ。

(福田恆存(つねあり)「人間・この劇的なるもの」)

項目表

項目表を参考にして、作文・感想文を書いてください。 項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森 
項目表 ザクロ の苗 高3年 4~6月
目標:自然科学や時事問題のテーマを書く書き方を身につける
 ★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
第 1 段落項目キーワード説明
構成 ○ 題名の工夫題名の工夫 <<構成>>「○○な○○」「○○の○○」のように工夫
構成 ○ 四段落構成 大きく四つぐらいの部分に分けて書く
構成 【】★ 書き出しの工夫書き出しの工夫 <<構成>>会話・色・音・情景で書き出す
主題 【】★ 予測問題の主題問題 予想 予測 <<主題>>将来Aが問題になる
             ↓
第 2 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の対策一対策 <<構成>>対策としては
題材 【】★ 体験実例体験 私 わたし 僕 ぼく <<題材>>自分らしい体験実例を書く
表現 ○ たとえまるで みたい よう <<表現>>まるで…のよう
主題 ○ 途中の感想 途中で主題に関連した感想を書く
             ↓
第 3 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の対策二対策 <<構成>>対策としては
題材 ◎ 読書実例・長文実例読書 時事 長文 <<題材>>著したように、著書「○○」で
表現 【】★ ユーモア表現笑 爆 ユーモア <<表現>>ユーモアのある表現(笑)
表現 ◎ ことわざの加工ことわざ <<表現>>ことわざや名言や流行語を加工する
             ↓
第 4 段落項目キーワード説明
主題 【】★ 反対意見への理解確かに <<主題>>確かにBもよいが、しかしAが
表現 【】★ 自作名言ではなく でなく 自作名言 <<表現>>「○○とはAではなくBである。」という形の文
主題 【】★ 予測問題の主題問題 予想 予測 <<主題>>将来Aが問題になる
構成 ◎ 書き出しの結び書き出しの結び <<構成>>書き出しのキーワードを使って結ぶ

字数 ★ 600字以上
表記 ○ 決めてくる、読みかえす書くことを決めてくる、書いたあと読み返す
表記 ★ 制限時間75分書き始めから書き終わりまで75分で
表記 ○ 構成メモ作文を書く前に構成メモを書く
表記 ○ 漢字を使う、ていねいに書く習った漢字を使いていねいに書く
表記 ○ 段落三文段落の目安は三文ぐらい
表記 ○ 一文一点読点は1文に1〜2点を目安に
表記 ○ 常体で書くした・だった・であるなどで書く練習
表記 ○ 誤字一ヶ所以内一つの作品に誤字は一つまで


課題のヒント

input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. 「医師は告知すべきか」という、しばしば議論される問いは、患者(かんじゃ)が死に近づいていることについて医師はすべて知っているが患者(かんじゃ)は何も知らない、という誤った含み(ふくみ)を伝えてしまいやすい。したがってその結果生じる討論や論争は、ピントがずれていたり現実の問題には少ししか触れ(ふれ)ていない場合が多い。医師が何でも知っているなんてとんでもない。患者(かんじゃ)の容体は死を待つばかりだと確信していても、間近にならないかぎり、死亡時期を正確に予想できることはめったにない。その上、患者(かんじゃ)も何が起ころうとしているのか気づいていないわけではない。多くの患者(かんじゃ)が、自分の死が近いことをはっきりとわかっているのである。
 告知をするかしないかを選ぶというよりもむしろ、ほかのことを問いかける方が有益だろう。われわれは患者(かんじゃ)を励ます(はげます)べきか、それとも死についての話題に至るような事柄(ことがら)を話し始めた患者(かんじゃ)から真実を隠す(かくす)べきなのか。死についてどの程度率直に話すべきなのか。患者(かんじゃ)は万事順調にいっているということだけを言ってもらいたいのじゃないかとわれわれが感づいたならば、嘘をつくべきだろうか。病気が致命(ちめい)的なものなのかそうでないのかを真剣(しんけん)に知りたがっている場合、患者(かんじゃ)の推測が間違い(まちがい)ないことをはっきりさせるべきなのか。単刀直入な質問がない場合、真実を語る義務がわれわれにあるのか。問いかけてくる者たちに、死が近いことを否定するのは正しいことなのか、あるいは知りたいという意向を示さない者に告知するのは間違っ(まちがっ)ていることなのか。死の自覚が徐々に(じょじょに)増すようにすべきなのか、あるいは死の病に冒さ(おかさ)れているものは、死をより甘んじ(あまんじ)て受け入れられるように、このことを早期に知るべきなのか。もっと率直に告げるというのなら、それをどう知らせたらいいのか。知らされたらどんな反応をするだろうか。これらの問いはすべて、「医師は告知すべきか」という簡略化しすぎた冒頭(ぼうとう)の問いの一部なのだが、こうした問いに対し万人に受け入れられる回答はあり得ない。人はそれぞれ異なるし、道徳的信条や通説が判断に影響(えいきょう)を及ぼす(およぼす)からである。
 助かる見込み(みこみ)のない患者(かんじゃ)たちに死の可能性について率直に話す十分な理由がある。死が近づいていると強く疑っているのだが、そのことを問いかけたり話し合ったりする機会を全く与え(あたえ)られない病人は、周りの者が口をつぐんだままであればひどい孤立(こりつ)感を味わうことがある。こうした患者(かんじゃ)は、死が近いという事実を患者(かんじゃ)から隠し(かくし)たり、事実に触れ(ふれ)ないでおこうという意図のもと、すべて見せかけの言動をする人たちに囲まれているかもしれない。その結果患者(かんじゃ)は、だまされているという意識をもつのだ。もしみんなが、患者(かんじゃ)の間近に迫っ(せまっ)た生からの旅立ち、つまり、自分たちにとっての永遠の別れが絶対に起こらないというふりを続ければ、患者(かんじゃ)は他人との全く心からの会話から生じる精神的な安らぎをどうして得ることができようか。われわれは死を迎え(むかえ)つつある者たちに告知する義務があるという意見には、物質的根拠(こんきょ)と精神的根拠(こんきょ)がある。医師が患者(かんじゃ)に死が近いという事実を隠せ(かくせ)ば、患者(かんじゃ)は家庭の身辺整理をしそびれるだろうし、死が近いかもしれないとわかっていれば考えもしないような投機的事業を始めるかもしれない。死が近い人物には警告しなければならないという医師の法的責任は、討論の問題となりそうだ。しかしたいていの医師は、死が間近な人に何を告げるべきかを考えるときに、人がどれほど先まで身辺整理をする必要があるのかを心に留めているだろう。死に対して準備をしておくのはよい考えです、と助言することは、この効用に役立つだけではない。慎重(しんちょう)にいえばそれは、もっと知りたければ病人は医師とさらに話し合いができるというほのめかしでもあるし、あるいは、それはただ額面通りに受け入れてもよい助言なのである。
 人が自分の死が近いことを知る精神的必要は、末期段階では物質的問題よりも重要だろう。死が近い人は、突然(とつぜん)、宗教信仰(しんこう)に走ったり、信仰(しんこう)を取り戻し(とりもどし)たりすることが多い。死が近い人は重病の中、ひょっとしたらいつもとはずいぶん違う(ちがう)声で、助けを求めて祈っ(いのっ)たかもしれない。回復が望めそうになければ、宗教界の大多数の人たちは、患者(かんじゃ)が永遠の生命の準備ができるようにこのことを知るべきだと強く感じている。
 時には、病気の結末に関する予想をめぐって、患者(かんじゃ)に率直に物を言う必要が増大する。というのも、興奮状態の短い希望の時期に続いて、絶望的にみじめな長い期間があるからである。患者(かんじゃ)は、不当な全く望みのない治療(ちりょう)に努力とお金を浪費(ろうひ)し、結局、有名な数々の万能薬が効かないときにひどく失望することになるだろう。患者(かんじゃ)が重病で、病状が悪化していると思われるのに、医師は効果のない治療(ちりょう)に満足しているように見えるときは、治癒(ちゆ)の機会が失われていくように感じられるかもしれない。このため患者(かんじゃ)は挫折(ざせつ)感を抱い(だい)たり、必死になってほかの医者巡り(めぐり)をするかもしれない。もちろん、評判の高い人物からのまた違っ(ちがっ)た意見(セカンドオピニオン)は、関係者全員に大いに役立つだろう。これによって、重要な可能性が無視されていないという確信が得られるだろう。むなしく治療(ちりょう)を求めている、悩み(なやみ)をかかえた患者(かんじゃ)が、病気の性質とどれくらいの希望が望めるのかということについて、医師とともによりよい理解に達すると、自信を取り戻し(とりもどし)、さらに大きな安らぎが得られるだろう。
 死が近い者には率直に物を言うほうがよいということを裏づけるこれらの主張にもかかわらず、死について患者(かんじゃ)と話したがらない医師は多い。そういった医師は、患者(かんじゃ)の大部分は安心を得るため以外ではその話題を出すことを望んでいないと感じているし、真実はおそらく患者(かんじゃ)の心を傷つけることになるだろうとも感じている。この一般(いっぱん)によく見受けられる医師の態度は、たとえ苦悩(くのう)を避ける(さける)ために「罪のない嘘」が意図された場合でも、意識的にその話題を避け(さけ)たり、医師に信をおいている患者(かんじゃ)をだましたりするのをかなりためらうということと、あまり愉快(ゆかい)なことではないが、結びついている。しかし率直に物を言う医師の中にも、死が近いと告げられることは患者(かんじゃ)にとってなんの役にも立たないという信念を明らかにしている者がいる。それは理論的根拠(こんきょ)により簡単に論破できる見解である。しかし、真実がかなりの苦痛を生む可能性があるとき、また、思いやりから出る一部分だけ真実の言葉が死に至る進行を実質的に変えないとき、そして死が近い人間が自分は回復するだろうということを聞きたいときには、嘘をつくことや時々だけでも作り事を教えることについて反対するのには、かなりの信念が必要となる。死が近い人たちの世話をする正直な人の多くも、そうするのは避け(さけ)たいと常に思っているやり方で、患者(かんじゃ)から真実を隠し(かくし)ていることに気づくのである。
 実際、回復の見込み(みこみ)がないと患者(かんじゃ)に言う医師は比較的(ひかくてき)少数なのである。例えば、医師の意見に関してのある調査で、勤務医と開業医の200名を越える(こえる)集団に、致命(ちめい)的だと判定される可能性が非常に高いガンにかかっているとわかった患者(かんじゃ)に告知するのは賛成かどうかと質問した。こう定義された患者(かんじゃ)の中にはもちろん、死はまだ先の話で、全体的にまずまずの健康状態にあった早期に、病気の徴候(ちょうこう)が診察(しんさつ)された者も含ま(ふくま)れているだろう。そういった患者(かんじゃ)は、この段階では自分の病気が致命(ちめい)的でないかと疑う理由はほとんどないだろうから、もし医師が実際に告知したとしたら、何か予期せぬ悪いことを知らせることになるだろう。これらの(調査に協力した)医師の88%は、患者(かんじゃ)に告知しないだろう(と答えた)。もっとも中には例外を設ける(と答えた医師もいる)。患者(かんじゃ)の質問は通常安心を求めてのものだとこれらの医師は感じている。残りの12%は、ガンにかかっていることを患者(かんじゃ)に通常告知する、特にもし患者(かんじゃ)が知的で情緒(じょうちょ)的に安定している場合はそうするだろう(と答えた)。大半の医師が、身内には告知すべきだと感じており、自分が知っていることの負担を分かち合えるとうれしいと答えている。ところで、この同じ医師の60%もが、もし自分が同じ致命(ちめい)的な種類のガンにかかっていたら、告知してもらいたいと言ったのである。情報を与える(あたえる)ことと受け取ることとの間にある意見のこの不一致(ふいっち)は、医師自身のより大きな精神力と責任感に基づくものだ、と医師は説明した。そうかもしれない。しかしその態度は専門外の人たちと医者に同様に見受けられる、感情面からそうすることに決めた態度である可能性の方が高いのである。このことは、これらの医師が他の医師のガンを治療(ちりょう)する際、一般(いっぱん)のガン患者(かんじゃ)の場合と同様、彼ら(かれら)にも率直に告知しないという事実によって示された。
 病気が致命(ちめい)的なものかもしれないことを病人に対して認めたがらないのは、医師に限らない。もしガンにかかっていたら告知してほしいという人々の希望調査によって、自分自身は告知を望むが、同じ状況(じょうきょう)にある他人に知らせるのはあまり勧め(すすめ)られないと思っていることがわかった。英国の末期患者(かんじゃ)治療(ちりょう)に関する詳しい(くわしい)調査によると、死亡した患者(かんじゃ)の親族や友人は、本当の病状について死にゆく本人よりも多くのことを知っているようであり、もっと多くのことを敢えて(あえて)もらうことを期待していた。これらの患者(かんじゃ)のおよそ半数が自分の病状を知っていた。この調査で質問を受けた者の多くが、死の床(ゆか)にある者が、自分の死をある程度知っている、あるいは知らないことを認めたが、患者(かんじゃ)は自分の死に気づくよりも、知らないままの方がよいという意見の方が強かった。結婚(けっこん)した人たちが配偶(はいぐう)者の致命(ちめい)的な病気に対処する方法について調べた最近の調査によると、たとえ暗黙(あんもく)の了解(りょうかい)はあるにせよ、お互い(おたがい)の病状について率直に話し合う者は4分の1もいないようである。 ( n )
 内容:シェークスピアの劇は、外見上宗教的な要素が見られないので、私たちは、シェークスピアを近代の劇と同じ次元で評価し、リアリティを欠いていると批判することがある。しかし、シェークスピアの劇は、作者の主張を訴えよ(うったえよ)うとしているのではなく、ひとつの世界に私たちを招き入れようとする試みである。それは、宗教的な秘儀(ぎ)が目指すものと同じである。同じように、私たちは路傍(ろぼう)の花に眺め(ながめ)いるとき、自然という全体に復帰する喜びを感じる。しかし、それらは実は逃避(とうひ)なのである。

 解説:劇というものは、作者の訴え(うったえ)ているテーマを批評的に受け取るようなものではなく、もっと全身で感じ取るものだ、というところでひとつの意見を考えることができます。もうひとつは、全身で感じ取り、対象と一体化するような喜びは、現実からの逃避(とうひ)だというところで意見を考えることもできます。

 映画を見て、感動して、「ああ、よかった。心が洗われるようで、なんだか勇気が出てくるようだ」といくら思っても、実際にはどこも洗われていませんし、その人の勇気も実力もどこも変わっていません。大切なのは、観念的な一体感ではなく、実際に対象を冷静に見て、それを少しずつ変革していく行動でしょう。劇や映画の喜びは、人間にとって大切なものですが、それが現実からの逃避(とうひ)になってはならないということです。 ( n )
第一段落は、要約と意見(予測問題)。
 「思想と現実の分析(ぶんせき)を優先するあまり、自然や劇の中に示される生きた現実から遠ざかってしまうことが予想される。一方で、全身で感じ取り、対象と一体化するような喜びに埋没(まいぼつ)すると、現実から逃避(とうひ)してしまうことが予想される。」

第二段落は、対策1と体験実例。
 「第一の対策は、全身で感じ取り、対象と一体化するような喜びを十分に味わうことだ。」海や山など自然の中で大きな感動を味わったことがあるかもしれません。また、長文にあるように、名も知らぬ路傍(ろぼう)の小さな花も、季節の変化を感じさせたり生命の神秘を感じさせてくれたりします。また、劇や映画やスポーツなどを観ることも、大きな感動を与え(あたえ)てくれます。ソチ五輪では、フィギュアスケートの浅田真央選手や羽生弓弦(ゆみづる)選手の演技に感動した人も、たくさんいるのではないでしょうか。感動は、人間に生きる力を与え(あたえ)てくれます。
 
第三段落は、対策2と実例。
 「第二には、生きていく上で自分なりの思想を持ち、分析(ぶんせき)的な視点を失わないことだ。」感動の体験に酔い(よい)、浸っ(ひたっ)ているだけでは、それを自分の人生に活かしていくことはできません。自分自身に立ち返り、覚めた目を持って自分なりに考えて生きていくことが必要です。お芝居(しばい)でも、良い役者は役に没入(ぼつにゅう)するのではなく、演じている自分を見ている自分を意識しているものだと聞いたことがあります。

第四段落は、自作名言と意見。
 「思想と現実の分析(ぶんせき)が生きることではなく、また喜びへの逃避(とうひ)も生きることではない。大切なのは、二つのありかたを行き来し、両者のバランスを保ちつつ生きることだ。」(「総合化の主題」や「生き方の主題」のようになってしまいましたが。)
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