input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. 科学における動物行動研究の最大の障害は、擬人観を避けたいという強い願望である。擬人観とは、人間の性質――思考、感情、意識、そして動機――を人間以外のものにもあてはめることを意味する。天気が自分たちのピクニックを台なしにしようとしているとか、木は友だちだと主張するとき、彼らは擬人化しているのである。天気が自分に冷たくしているのだと信じるものはほとんどいないが、動物についての擬人観はもっと多くの人が抱いている。科学界の外では、ペットや野生動物の思考や感情について述べることは普通である。しかし、多くの科学者は、動物が苦痛を感じるという考えですら、擬人観の中でも最悪の過ちであるとみなしている。
科学は、動物に対する擬人化を重大な誤り、罪悪とさえ考える。擬人化を「犯す」ことについて、科学の世界では普通に語られている。この言葉はもとは宗教的なもので、人間の姿や性質を神にあてはめることを指している。1908年の『宗教・倫理学百科』の擬人観の項目には「感覚的な対象であれ思考の対象であれ、対象を人間とみなす傾向が擬人観の始まりである。未開人だけでなく動物や子供にも見られる」と書かれている。その考えをすすめれば、人間は自分の姿に合わせて神を作るということになる。かくして、あるドイツ人哲学者は、かつて神はわれわれが人間の本質を天のスクリーンに映したものにすぎないと述べた。科学の世界では、人間の性質を動物にあてはめるのは原理にそむくことを意味する。人間が神のようになれなかったように、動物は人間のようにはなれないというのだ。
ある科学者を擬人観論者だと非難することは、信頼できないという厳しい批判を加えているということである。擬人観は種の混同であり、主体と客体との区別を忘れているとみなされる。思考や感情が、その能力がないとわかっている生き物にあると考えるのは、実際、問題であろう。しかし、動物に喜びや悲しみといった感情を与えることは、動物はそんな感情を抱くことはできないことをその本人が知っているとすれば、それは単なる擬人観的過ちにすぎない。科学者の多くはこう判断しているが、証拠に基づいているわけではない。実情は、感情が否定されているというよりもむしろ、科学的議論となるには危険すぎるとみなされているということである。その結果、最も著名な科学者でなければ、自分の名声を危険にさらしてまでこの分野について記述しようとしないだろう。したがって、動物に感情があると実際に信じている科学者は多いかもしれないが、そのことを信じていると口に出すのは気が進まないばかりか、それを研究したり、学生にその調査を奨励したりするのもいやがるのである。彼らはまた、感情の言葉を使おうとする他の科学者を攻撃したりするかもしれない。科学者でない者が科学的に正確であろうとするならば、慎重に振る舞わねばならない。
この科学的正統性に対抗して、あるイギリス人生物学者が、別の動物の生活の中に自分があると想像することは、科学的に正当と認められるし、知識を生み出すものでもあると主張している。彼は、人間と自由奔放に暮らしているライオンとの間の深い感情的な結びつきについての驚くべき記述を、次のように紹介している。一般の人間が、動物のしぐさや姿勢を人間の感情に関する言葉――怒りや好奇心、愛情や嫉妬一の助けを借りて解釈するとき、厳格な行動主義者は彼らを擬人化つまり、動物の皮間の下に人間の精神が活動しているとみているという理由で非難する。これは必ずしもそうではない。動物の生活を真に研究する者は、進化論的考え方をしていなければならない。結局、その研究者とてホ乳類なのだ。行動をできる限り十分に解釈するためには、彼は人間という同胞だけでなくホ乳類という同胞にも適用される言葉を使わねばならない。そしてそのような言葉は、客観的な単語だけでなく主観的な単語も使わねばならないのだ。たとえば、危険から逃れたいという衝動に加えて恐怖という語を、知識を得たいという願望に加えて好奇心という語を、というふうに。
動物の調教師といった、動物と身近に仕事をする人のほとんどが、動物に感情があることを当然の事実とみなしている。たとえば、象と一緒に仕事をしている人の話によれば、象の「気分」を無視するときは、明らかに危険を覚悟でやっている。イギリスの哲学者がこのことをうまく述べている。
これら象の調教師は擬人観を抱いているので、象について多くの間違った信念を抱いているかもしれないことは明らかだ。しかしもし彼らがこのことを日常の基本的な感情――たとえば、自分の象が喜んでいるのか困惑しているのか、恐れているのか興奮しているのか、疲れているのか疑っているのか怒っているのか一に関してやっているとしたら、仕事にならないだけでなく、死んでしまうことになるだろう。 擬人観に対する多くの批判の根底にある真の問題は、実は人間中心主義なのだ。人間をすべての解釈、観察、そして関心の中心におくこと、そして影響力のある人間をその中心におくことによって、科学におけるいくつかの最悪の誤りが生まれてきた。人間中心主義は動物を人間よりも低い生物とみなし、彼らの現実の姿を否定する。それは、人間を動物から区別したい、動物を人間とは違うものにしたいという強い願望を反映しており、おそらくそれは、人間を進化の段階と食物連鎖の頂点に君臨させておくためだろう。祖先が共適しているにもかかわらず、動物は人間とはまったく別物だという考えは、動物が人間と似ているという考え以上に非合理的である。
動物を理想化することは、また別の種類の人間中心主義である。もっともそれは決して、動物を低級のあるいは邪悪な生き物であるかのように扱うことほどは起こらないが。動物は人間が持ちたいと思う長所のすべてを備えていて、われわれの欠点はひとつも持っていないという信念は人間中心主義なのだ。なぜなら、この種の考えの中心には、人間のよこしまなやり方についての間違った強い考え方があり、それが人間との対比を強調しているからだ。この感傷的な考え方によると、自然界は戦争も殺戮もない場所で、動物は嘘もつかず、ごまかしも盗みもしない。この考えは現実によって裏づけることができない。だますという行為は、象からキツネにいたるまでの動物で観察されている。アリは奴隷アリを持っている。チンパンジーは他のチンパンジーの集団を、外部からの脅威がまったくないのに、殺意を抱いて攻撃するかもしれない。オスライオンは群れに加わるとしばしば、別のライオンを父親として生まれた若いライオンを殺すのだ。
人間は昔から、動物は人間と感情的に結びつく潜在能力を持っていると認識してきた。インドの説話の最も古く最も広く知られているものの1つは、カーストの最高位に位置する僧侶のバラモンとマングースの、生死を左右する結びつきについてのものだ。
昔、1人のバラモンがある村で妻と暮らしていた。妻にある日男の子が牛まれた。バラモンは貧しかったが、自分の息子をすばらしい宝と考えた。子供を産んだ後、バラモンの妻は川へ沐浴をしに行った。バラモンは家に残り、幼い息子の世話をした。そうこうするうちに1人の小間使いが、重要な神事を執り行いに宮殿へ来てくれと呼びに来た。子供の護衛として、彼は、生まれたときから家で飼ってきたマングースを残して行った。バラモンが出かけるとすぐに、1匹の蛇が突然、子供の方にはって行った。マングースは蛇を見るや、主人への愛情からそれを殺した。数時間後、マングースは遠くにバラモンが帰って来るのを見た。バラモンを見てうれしくなったマングースは、蛇の血で汚れたまま彼の方に駆け寄っていった。しかしバラモンは血を見て、「きっとこいつは私の幼い息子を殺したのだ」と思い、怒ってマングースを石で殺してしまった。家の中に入り、彼は、マングースに殺された蛇と、生きて無事な子供を見た。彼は心の底から悲しんだ。妻が戻り、何が起こったかを知ると、夫を非難して、「ずっと友だちだったマングースを殺す前に、どうして頭を働かせなかったんですか」と言った。
この事件がほんとうに起こったかどうかはわからない。この話はまったく有り得ないことではない。マングースはインドではペットとしてよく飼われているし、事実、本当にコブラなどの猛毒種を含む蛇を殺す。しかし事実に基づいていようがいまいが、このような話はさまざまな文化で想像力をひきつけている。この話の形を変えたものが、モンゴル語、アラビア語、古代シリア語、ドイツ語、英語、その他の言語に見られる。そこで明らかに示されているのは、動物の忠誠心と明断な判断力、人間のおごりと罪の観念、人間の判断力の弱さに対する自覚である。マングースがわれわれと結びうる深い絆を、われわれが尊重していると信じていただけるだろうか。この民話は、少なくとも人間よりも動物をたたえるものなのであるう。 ( n )
内容:身体は解剖学的な構造を持った生理的身体であると同時に、運動や学習を内臓した文化的・歴史的な身体である。練習を繰り返すことによって、それまでできなかった動きのネットワークがある日突然構築される。しかし、いったんできあがったネットワークをさらに繰り返すと、習慣はやがて惰性になり、人は惰性に飽きている自分を発見する。