input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. A氏が提言に反論する。
いいですか。国家が互いに道義的に行動できるかどうかという問題は、無視されてきた問題でもないし、未解決の問題でもないのです。多くの偉大な思想家がこの問題に取り組み、道徳や倫理といった概念は、やむをえぬ理由で国家間の行動にはどうしても含まれない、との結論を出しています。もしあらゆる国家が進んで好感のもてる国になり、またすべての国家が同じような価値観をもっており、似たような発達段階にあれば、遵守することに万国が同意できる法律を諸国家が集まって案出する方法はあるかもしれません。しかしそれは現段階では明らかに不可能なのです。まさに今世紀にそれは国際連盟で試みられたのですが、結果はどうしようもない失敗――まったくの冗談に終わってしまったことをよくお考え下さい。
国家はその定義上、利己的なものであるということを理解しなければなりません。国家の行動が正当と認められるようにみえる場合もあります。死活問題として、他国の資源を手に入れる必要がある場合もあるでしょう。あるいは、単なる領土拡張至上主義者である場合もあるでしょう。これは人間の特性、おそらく繁栄の追求に根差している特性であるように思われます。ナポレオンのような(徹底的に支配しようとする)タイプが台頭してくるのは避けられませんし、それに対抗するために各国家は勢力の均衡状態を昔から作り上げてきました。そこでは1つの大国が、有力な敵対国に対抗して、自国の周囲に自分よりも小さな国家を集めて同盟を作る場合もあるでしょう。
強い国は、程度の差はあれ自分のやりたいことを弱い国に対してできるということも認めなければなりません。歴史上何度も、強国は弱国を搾取し、また滅ぼしさえしてきました。これが現実であり、それは人間の利己性および世界の構造と関係があるのです。そのために、ついでに述べさせてもらいますが、平和主義者の立場を取る指導者は、この道徳的意思表示に対するいかなる賞賛も得ないのです。もし平和主義の指導者が自分の国に軍備をしておかなければ、侵略者に攻撃させるよう積極的にきそっているようなものです。
以上述べてきた事柄は、程度の差はあれ道義性のはっきりしないものですが、国家が互いに道義的関係をもたないことがどうして明らかによいことなのかという理由はこれ以外にもいくつかあります。第1の理由は、国家あるいは文化として独立することが重要だということです。他国に干渉しないことが最重要ルールであるという点をすべての独立国家が認めて初めて、各独立国家はその機能を思いどおりに果たし始めることができるのです。自分こそが一番よく知っているのだと思っている国家が他国の問題に干渉するのを許してしまえば、大混乱が生じるでしょう。干渉している強国の利己的な動機を覆い隠すために、善意をよそおった美辞麗句が多用されているのも耳にすることでしょう。
ですから、互いの国内情勢を批判しないという、拘束力をもった協定をすべての政治家が結ぶことは、理にかなった策なのです。ときには、このことは残虐行為、あるいは極端な場合、集団殺戮に苦しんでいる人々が外の世界によって救われることはないということになるでしょう。しかし人間というものは、都合が悪ければ仲間を救いたがらないようにみえます。個人の場合、1人の人間が苦しんでいるのを目にすると助けなければならないと感じるのは、経験から明らかでありますが、国家の場合はそうではないのです。集団は何といっても、個人ほど道徳的ではないのです。その集団が個人で構成されていてもです。どうしてそうなのかは謎ですが、事実はそうなのです。
国家間の問題に「道徳」を介入させないもうひとつの大きな理由は、国家の中には悪を一掃しようとして道徳的にだんだん興奮するあまり、決して戦い続けることを止めない国があるということです。あるいは敵の無条件降伏を主張するかもしれません。国家が自分たちの文化が他よりも優れていると考えることもまた周知のとおりです。2つの超大国のそれぞれが自国のイデオロギーは純粋で正しく、相手国のイデオロギーは邪悪なものと考えています。もしこの2つの超大国がこのことをめぐって戦争を始めていたら、人類は壊滅していたでしょう。実際は、アメリカとソ連双方の指導者は、世界の舞台で、イデオロギーに従って行動するというよりもむしろ、個々の出来事に対応していることに注意して下さい。指導者たちはゲームのやり方を知っており、このゲームには理想は関係ないのだということを知っています。政権の座についていれば、あなただってすぐにこのことがわかるでしょう。そして国際関係の道義など考えなくなるでしょう。
要するに、人のもって生まれた本能は、何か間違った不正なことが国際的に進行していると教えてくれるかもしれませんが、それに関してできることは実際はあまりないのです。国内の社会の一員が犯罪行為に関与すれば、隣人は警察を呼ぶことができますが、国際舞台では、訴えていく先の権力がありません。それぞれの国は自分で自分の面倒をみなければならないのです。各国家とその相対的力関係が、どの国が何をうまくやってのけられるかを最終的に決定する要素となるのです。まちがいなくこれが現実なのです。B氏が提言に賛成意見を述べる。ばかげています。あなたは国家間の活動に道徳概念をあてはめることは適切でないとおっしゃいますが、そういった行動――何百万もの人の幸福に影響を及ぼすかもしれない行動――が何であれ、道徳的配慮から除外することがどうしてできるのかお尋ねしたい。あなたと私がここで立ち話をしている2人の穴居人なら、道徳というものをなくてもすませられる何か珍しいものと考えることもできましょう。しかし私たちはともに西洋文明の産物ですから、人間の問題はすべて道徳的判断を受けるものと考える傾向にあります。さらに私たちは、政府の行動が国民の願いと承認に従うものと考えられている現代世界の産物なのです。実際、私たちは個人の権利、つまり人権の意味を明確にしたことを自身の主要な文化業績と考えているのです。
少なくともある程度は、人権に対する私たちの信念は、人間は平等だという信念から生まれています。人は皆、いくつかのものを共有しているのです。なるほど行動面では、多くの文化的差異があるでしょうが、基本的には人は同じものを好み同じものを嫌うのです。例えば、人は自分の子供を健康に育てたいと思い、財産が盗まれるのを好みません。こういった類似性によって、かなり普遍的な法律が生まれます。このために、私には、共通の法律が広まり、個人だけでなく国家もそれに従うように思われます。一例ですが、ある国が他国から物を盗むのが悪いのは、1個人が他人から物を盗むのが悪いのとちょうど同じことなのです。
もちろん、人間は個人としてだけではなく、集団の一員としても行動するのだということを私は認識しています。集団生活は重要な現実であり、集団には何らかの権利、例えば生きようとしたり自分たちの文化を実践しようとしたりする権利があることは私は認めます。しかし集団の数は多く、その利害関係は対立する場合もあるので、妥協するためには努力しなければなりません。理性によって導き出される結論が行動規範ではないかと思われます。集団は、他の集団が自分たちと同じ人間的願望と要求、そして「権利」をももっていると考えることができます。これはそれほど非現実的な提言ではありません。ジュネーブ条約を考えてみてください。そこではそれぞれの国が、例えばすべての負傷兵士がみんな同じ境遇にあると考えてきました。ですから、戦場での医療基地を保護するための仕組みが確立されてきました。これは懐疑論者なら、絶対に起こりえないといったかもしれない仕組みなのです。
歴史には方向性があるということを認める必要があると思います。国際道義が必要な原因と理由は、世界の静的構造の機能によるものでも、一定の人間性によるものでもないのです。私たちは現実に起こっていることをみつめなければなりません。一方、利益は富と技術的知識の集中にみられるように、時を経るにつれてより強力にまとめることができます。同時に、価値観はよりいっそうまとめられ、「正当化」することができます。この30年間に生態学者が、どのようにしてきれいな空気と水の重要性を、一般大衆に認識させたかに注目してください。これは、もし利益が国家を支配する唯一の要因だとしたら、無視されたかもしれないものなのです。今行われている議論の多くは、一見、個人の利益に対立する国家の利益、あるいは人類全体の利益に対立する国家の利益を扱っているようにみえますが、そうではなくて、価値に対立する利益を扱っているにすぎないと思います。
つまるところ、国際道義は話題にはならないというあなたの言い分を、私は受け入れません。私にはあなたの意見はどうしても真実だとは思えません。道義的考察を拒む分野が人間の問題にあるはずがないのです。 ( n )
脳死の問題は、技術的な問題ではなくむしろ倫理的な問題です。それも、人類がこれまで遭遇したことのない新しい倫理の問題を提起していると言ってよいでしょう。よい悪いをすっきりと割り切ることのできない問題にどう対処していくか、一人ひとりの人間観が問われているとも言えそうです。 ( n )
第1段落は、要約と「当為の主題」。「我々は、技術の進歩に見合うだけの精神を持つべきだ。」「技術の進歩につれ、倫理観も変革していくべきだ。」など。