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級:★   山:wa   年:★   月:06   週:2  苗:wa
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題名:科学技術は地域や民族の(感)

感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。

課題の長文
 【1】科学技術は地域や民族の差異を越え(こ )、それゆえにヨーロッパに生まれたという出自の制約を抜け出(ぬ で)て、全地球に広がった。その普遍(ふへん)性は、あたかもすべてを均等にきりそろえる刃物(はもの)のような硬(かた)さをもって地域文化を水平化し、生活空間を均一化し、社会システムを一元化していく。【2】その傾向(けいこう)は「硬い(かた )普遍(ふへん)性」をもっている。それに対し、文化は特定の地域の伝統や民族のエトスに育まれるものとして本性上ローカルな性格をもちながら、しかも、ある「柔らかい(やわ   )普遍(ふへん)性」をふくんでいる。文化の柔らかい(やわ   )普遍(ふへん)性は、究極的には宗教の普遍(ふへん)性にあらわれるといってよいであろう。【3】宗教はかならずその発生地のローカルな神観念や自然観と密接にむすびつき、民族宗教的でありながら、しかも人間の生死にかかわる事柄(ことがら)として、大なり小なりユニヴァーサル()で世界宗教的な側面をもつのである。
 【4】簡単な言い方をすれば、ヨーロッパにおいては、科学技術の硬い(かた )普遍(ふへん)性と文化の柔らかい(やわ   )普遍(ふへん)性とは根本的には対立することなく、いわば同心円をなしたのである。それは科学技術が自らの精神の自発自展だったということと同じである。【5】厳密に言えば、「技術」を受け入れる地盤(じばん)に文化のエトスがふくまれる以上、技術それ自体は必ずその内に「柔らかい(やわ   )普遍(ふへん)性」をふくむはずである。一元性の硬(かた)さは、厳密には技術にではなくて科学に帰せられる。【6】ヨーロッパでは、科学の思考が自らの精神そのものに胚胎(はいたい)していたがゆえに、柔らか(やわ  )さの中心が硬い(かた )科学技術の殻(から)を形成したといえる。
 そのことは一見普遍(ふへん)的に見えたヨーロッパ的世界が、実はひとつのローカルな地域であることを意味する。【7】もちろん科学技術によって可能となった牧歌的「文明」が、「文化」の精神性を脅かす(おびや  )という危機意識は、いろいろな思想家において表明された。しかし、それは、ヨーロッパ精神の内部での危機意識にとどまっていたのである。【8】それはどこまでも「自己」批判であり、その自己のうちに非ヨーロッパ世界という「他者」を含む(ふく )ことはなかった。
 それに対して、日本近代がヨーロッパ近代の受容をともなって成立したとき、両者は同心円を形成するわけではなかった。【9】硬い(かた )普遍(ふへん)性と柔らかい(やわ   )普遍(ふへん)性とは、いわばそれぞれの中心をずらして∵併存(へいぞん)しつつ、同一のエポックを形成したのである。あるいは、柔らかい(やわ   )普遍(ふへん)性がいろいろの中心を併存(へいそん)せしめ、そのひとつとして科学技術を内につつんだのである。【0】その多中心的な複合構造が、自己同一性を基本とするヨーロッパ近代と日本近代の構造上のちがいだともいえる。
 分かりやすい例をひとつ挙げよう。火薬の発明により戦争の仕方が一変したことは、周知のとおりである。そのことは、洋の東西において同じである。しかし子細(しさい)にみればどうか。ドイツの文化史家フリーデルがその名著『近世文化史』の中で指摘(してき)したように、火薬の発明によって人間のあり方が変わった。「騎士(きし)」は「兵士」になったのである。自分の名をもち、名を名乗ることによって戦いを始め、自分と自分の家門の名誉(めいよ)を何より重んじた騎士(きし)の武芸は、鉄砲(てっぽう)の前には児戯(じぎ)に等しいものとなり、それに対抗(たいこう)すべく騎士(きし)は兵士となった。人間はそれによって、鉄砲(てっぽう)と同じくひとつの部品として調達される、代替(だいたい)可能な存在となった。(中略)
 それに対して、日本では事情は異なっていた。武士は火薬の発明以後に代替(だいたい)可能で、匿名(とくめい)の兵士というあり方を兼ね(か )つつも、武士というあり方を失わなかったのである。日本の「武士」は、別のエトスの中で生きていたからである。武士と主君とをむすびつけたものは、解消可能な「契約(けいやく)」ではなくて、領地を媒体(ばいたい)とした共同体意識である。そこでは、自己の主体性を主張し、他を客体として吟味(ぎんみ)するという姿勢はない。暗愚(あんぐ)の主君だから仕えることを止めるといえば、ヨーロッパの契約(けいやく)の精神からすればあり得るが、日本の武士道の精神では理にそむく。主君に仕えるということは自分の主体的決断でなされることではなくて、自分の決定以前のことなのである。そこでは、主体性の確立よりは自我の滅却(めっきゃく)が尊ばれる。そういう武士にとって、火薬や鉄砲(てっぽう)は文字どおり舶来(はくらい)の武器である。彼ら(かれ )は、その舶来(はくらい)の武器を駆使(くし)するようになった。しかし武士はそれによって戦争の仕方を一変させはしたが、武士であることを止めなかったのである。
(大橋良介(りょうすけ)「武士的なもの、ヨーロッパ的なもの」)

項目表

項目表を参考にして、作文・感想文を書いてください。 項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森 
項目表 ワタスゲ の苗 高1年 4~6月
目標:人文科学のテーマを書く書き方を身につける
 ★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
第 1 段落項目キーワード説明
構成 ○ 題名の工夫題名の工夫 <<構成>>「○○な○○」「○○の○○」のように工夫
構成 ○ 四段落構成 大きく四つぐらいの部分に分けて書く
構成 【】★ 書き出しの工夫書き出しの工夫 <<構成>>会話・色・音・情景で書き出す
主題 【】★ 当為の主題べき 当為 <<主題>>私はAべきだと思う
             ↓
第 2 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の方法一方法 <<構成>>…の方法としては第一に
題材 【】★ 体験実例体験 私 わたし 僕 ぼく <<題材>>自分らしい体験実例を書く
表現 ○ たとえまるで みたい よう <<表現>>まるで…のよう
主題 ○ 途中の感想 途中で主題に関連した感想を書く
             ↓
第 3 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の方法二方法 <<構成>>…の方法としては第二に
題材 ◎ 歴史実例・長文実例歴史 長文 <<題材>>歴史の実例・長文集の実例
表現 【】★ ユーモア表現笑 爆 ユーモア <<表現>>ユーモアのある表現(笑)
表現 ◎ ことわざの加工ことわざ <<表現>>ことわざや名言や流行語を加工する
             ↓
第 4 段落項目キーワード説明
主題 【】★ 反対意見への理解確かに <<主題>>確かにBもよいが、しかしAが
表現 【】★ 自作名言ではなく でなく 自作名言 <<表現>>「○○とはAではなくBである。」という形の文
主題 【】★ 当為の主題べき 当為 <<主題>>私はAべきだと思う
構成 ◎ 書き出しの結び書き出しの結び <<構成>>書き出しのキーワードを使って結ぶ

字数 ★ 600字以上
表記 ○ 決めてくる、読みかえす書くことを決めてくる、書いたあと読み返す
表記 ★ 制限時間75分書き始めから書き終わりまで75分で
表記 ○ 構成メモ作文を書く前に構成メモを書く
表記 ○ 漢字を使う、ていねいに書く習った漢字を使いていねいに書く
表記 ○ 段落三文段落の目安は三文ぐらい
表記 ○ 一文一点読点は1文に1〜2点を目安に
表記 ○ 常体で書くした・だった・であるなどで書く練習
表記 ○ 誤字一ヶ所以内一つの作品に誤字は一つまで


課題のヒント

input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. 論理実証主義者は、文というものが意味を持つのは、それが真であるか偽(にせ)であるかを定義できる場合に限られると述べた。ここでは、虚偽(きょぎ)の文と意味のない文の区別を保つことが重要である。たとえばもし私が「来年のクリスマスイブは12月27日に当たる」と言えば、この文は間違っ(まちがっ)ているが無意味ではない。それが間違い(まちがい)であることは、単にカレンダーを見るか、クリスマスイプは毎年自動的に12月24日に当たるという知識によって証明できる。他方、もし「霊魂(れいこん)は物質である」と言えば、実際は何も言わなかったことになる。この文は真実でも虚偽(きょぎ)でもない。無意味なのだ。これは立証することも反証することも到底(とうてい)できないからである。
 この点において、哲学(てつがく)の仕事は言語を論理化することだと考えられており、哲学(てつがく)者は統一言語つまり、万人が使い、理解することができるような構造をした言語という概念(がいねん)を提案したのだった。そういった論理化された言語は、2種類の単語だけで成り立っているだろう。つまり、(A)観察できるものに言及(げんきゅう)する単語と、(B)これらの単語の互い(たがい)の関係に言及(げんきゅう)する単語、たとえば、「〜と」「または」「〜でない」などのような単語である。論理化された言語は、明確で正確ではあるだろうが、B・ラッセルがかつて述べたように、明らかに詩には不向きな言語だろう。彼(かれ)の反対意見は、当時彼(かれ)が気づいていたよりも深遠なるものだった。というのは、この論理化された言語こそ、言語哲学(てつがく)の現在の到達(とうたつ)点、つまり、それ自体はまったく意味を持たない意思伝達手段としての言語だからである。したがって、言語と現実の関係に関して言えば、言語哲学(てつがく)は現実を第一の関心事とし、言語を単なる手段に至らしめたのである。
 しかし、正反対の考え方を採用することは可能だ。言語は当然何かを他人に伝達する手段である。つまり、他人との関係を成り立たせ、意思を伝達する手段である。だが同時に、言語は芸術、科学、政治、道徳といった他の所産と並んで、それ自体が文明の所産である。言語には独自の特性と独自の構造がある。言語を通して、文化のパターンが表現される。さらに一歩踏み込ん(ふみこん)で、言語を通してこそすべての文化的業績が伝えられるのだから、言語は文明の基本的な創造物だと述べることさえできる。
 これは、初めて見て理解するのは簡単ではない。人はまず言語とは関係なくある概念(がいねん)を思いついたり、何らかの物を認識したりし、それから、それを他者に伝えるためにそれに言語という衣装をまとわせたり、あるいはそれを翻訳(ほんやく)する――単語や言語形態に置き換える(おきかえる)――、というのは事実ではない。認識、思考、概念(がいねん)は、それ自体言語的なものである。なんとなれば、思考を方向づけ、概念(がいねん)を形成するのは、言語構造だからである。実際、人間は、言語を通して人間になるのだ。
 それゆえ、言語が第一義的に重要なのであり、非言語現象を物や概念(がいねん)であるとまず第一に想定し、それから言語をいわば服のようにまとわせるというのは間違っ(まちがっ)ている。我々の世界では、すべての現象は、言語を通して明らかにされるがゆえに、それ自体が言語的なのである。言語は、それが伝える世界と切り離す(きりはなす)ことができないがゆえに、単なる伝達手段以上のものなのである。
 その結果、言語が不正確であいまいだと主張するのは誤りである。それどころか言語は、少なくともその本来の姿、つまり、この世界で我々人間が相互(そうご)の関係を成り立たせている、文明の基本的創造物として使われている場合は、すぐに明瞭(めいりょう)なものになる。言語を用いて、嘘をついたり皮肉を言ったりして人をあざむくことは可能だが、言語自体がすぐに理解できると仮定されているからこそこうしたことが可能になっているのだ。言語は、本来の姿と違う(ちがう)ものとして使われたときのみ、不正確あるいは、あいまいになる。個々の単語には、非常に多くの意味があり、明確な文脈の中に置かれていなければあいまいになるということがわかるだろう。他方、単語が文の中で使われ、その文が明確な状況(じょうきょう)のもとで、ある人間から別の人間に対して使われれば、その単語は完全に正確で明白である。正確な意味を持っているのは文であり、文を基に、文を構成している個々の単語が独自の正確さを帯びるのだ。
 子どもが言語を学ぶときとは、その子どもが自分自身と自分の世界を知っていくことを意味する。子どもは、文法を学び語いを習得するというように、外側から言語へ接触(せっしょく)するわけではない。子どもは遊びを通して言語を学ぶ。子どもは言語の中で成長し、世界を発見していくのと同じ早さで言語を発見する。成長していく中で、言語と文化はこのようにして一体化し、同じものになっていく。他の言語を後の人生で学ぶかもしれないが、これと同じやり方で学ぶことは決してない。外国語は外側から学ばれ、学習者の一部になることはない。外国語は、文法、語順、そして語いを通して、ゆっくりと学ばねばならない。外国語に非常に精通し、流暢に話すようになることは可能だが、それが自分の言語になるのはまれでしかない。もし外国語を実際に自分のものにしたら、文化的には別人となってしまうのだ。
 言語の文化的意義というこの観点から見れば、言語をそれ自体ひとつの知識源と見なすまであと一歩である。自分が何者なのかを理解するために、つまり、自分の人生観や他者との付き合い方、はたまた自分で定めた目標を自覚するために、我々は言語そのものに耳を傾け(かたむけ)ねばならない。文化は言語の中に現れるのだ。
 G・ムーアは、疑うことのできない知識があると述べることによって、このことを表現している。たとえば彼(かれ)は、自分のものである体を自分が持っていること、それがある時間存在してきたこと、それが常に地球の表面のかなり近いところにあり、他の物から一定の距離(きょり)にあることを知っているし、体に関して同じ体験をしている人がほかにもいることも知っている。この種のごく普通(ふつう)の文が、基本的でかつ疑うことのできない知識を表している。そして我々はみなその知識に基づいて行動しているし、他のすべての文は(その文が真実となるためには)、その知識に合致(がっち)していなければならないのだ。
 L・ヴィトゲンシュタインは彼(かれ)の後期の哲学(てつがく)体系の中で、言語はゲームであるという見解を採用した。言語はボールにたとえることができる。そのボールを使って人はあらゆる種類の異なったゲームができる。それぞれのゲームには、ゲームというものが仮にも成立するために選手が守らねばならない規則がある。規則を知らずに球技を観戦する者はだれであれ、試合が理解できないだろう。一度も学んだことのない言語を聞いても、一言も理解できないのとちょうど同じことである。我々の生活はこのようにして多種多様な言語ゲームを発達させてきた。ある単語が抽象(ちゅうしょう)的に何を意味するのかを述べることは決してできない。なぜならば、単語の意味は、どの言語ゲームが行われているかによって決まるからだ。「ジャム」という語は、抽象(ちゅうしょう)的にはただ「ジャム」という意味しかないが、食料品店へ行って「ジャム」と言えば、この単語は言語ゲームで使われていることになる。この語は私がジャムをひとビン買いたがっているという、店主に対する記号となり、店主はこれを完璧(かんぺき)に理解する。彼(かれ)はジャムのビンを取って包み、私に渡し(わたし)てくれるだろう。しかし、これがすべて「ジャム」というひとつの単語に意味として含ま(ふくま)れているわけではない。その状況(じょうきょう)と、我々が特定の状況(じょうきょう)でその言語を使って行っているゲームによって、意味として含ま(ふくま)れることになるのである。
 ある言語を理解するということは、ここでは、その言語を言語ゲームで使用することができるということと同じであり、他人が言うことを理解することは、正しいやり方で応答することができるということと同じである。生きているのだという感覚を抱く(いだく)のは、言語と言語が結びついたゲームの中なのである。我々はこのことを自分自身の経験から知っている。もし、自分と異なる職業、あるいは異なる文化背景に属している人々と一緒(いっしょ)にいれば、彼ら(かれら)が話していることが必ず理解できるわけではない。たとえ彼ら(かれら)が自分たちは英語を話していると言ってもだ。我々は彼ら(かれら)のゲームに参加することはできない。そのゲームのルールを知らないし、彼ら(かれら)が使っているようにその言語を使うことができないからだ。
 この点について、言語が困難な状況(じょうきょう)に陥る(おちいる)ときのみ哲学(てつがく)的問題が生じるという、興味深い提案がなされている。哲学(てつがく)的問題は病気のようなもの、言語の機能障害のようなものである。どこか具合が悪くなって言語がうまく機能しないのである。それゆえ哲学(てつがく)的検証は、医学的治療(ちりょう)に匹敵(ひってき)するものとなる。障害の原因を取り除こうとし、それが首尾(しゅび)よく完了(かんりょう)すれば、哲学(てつがく)的問題は、たとえ解決されていなくても、少なくとも消えているのである。 ( n )
 解説:この文章で述べられていることは、日本文化と欧米(おうべい)文化の比較(ひかく)という話題でよく出てきます。何度も読んで自分のものに消化しておきましょう。

 「ヨーロッパに生まれた科学技術は、ヨーロッパの文化と同心円をなしていた。しかし、その科学技術を輸入した日本の文化は、ヨーロッパの文化とは異質なものだった」というのが内容です。

 織田信長が長篠の戦いで武田勝頼(かつより)軍を破ったころの日本の鉄砲(てっぽう)の生産は質量ともに世界一だったと言われています。しかし、その後、天下統一とともに鉄砲(てっぽう)の発達は停止し、武士は刀をさして暮らす生活に戻り(もどり)ました。鉄砲(てっぽう)という武器が日本の文化と合わなかったからなのでしょう。

 自動車の使い方などでも、日本人とアメリカ人では違い(ちがい)があります。アメリカ人は、車を馬の延長とみなして、乗るための単なる道具とわりきって乗っていますが、日本では自分の部屋の延長という感覚で車に乗っている人が多いようです。ときどき、靴(くつ)を脱い(ぬい)で室内履き(はき)に履き(はき)かえて乗っている人がいるでしょう。

 科学技術を導入するときは、ついその現象面のハードな部分だけに目を奪わ(うばわ)れがちですが、その背後にある文化というソフトな面にも目をむける必要があります。ことわざで言うと「仏作って魂(たましい)入れず」というところでしょう。

 外国の文化のよいところを取り入れることは大切だが、それを自分の文化に合わせてうまく消化していくべきだ、という意見で考えていきましょう。外国の文化ではなく、ほかの人のよいところを、と身近な話で考えてもいいでしょう。 ( n )
 第一段落(150〜200字)要約
 続いて意見を挙げます。「外国の技術・文化を取り入れるときは、自国の文化に合わせて消化していくべきである。そのために考えられる方法は二つある」。 
 第二段落(150〜200字) 方法1
 「第一の方法としては、上っ面だけの模倣(もほう)をしないことだ。」(第一の方法は個人の側からの心構えのようなかたちが書きやすい)。その裏づけとなる実例。「かたちから入る」などと言って、外見だけ「らしく」揃える人がいます。日本人は外国から来るものに憧れ(あこがれ)を持ち、すぐに取り入れますが定着しているでしょうか。椅子(いす)の上に座布団をしいて正座してるおばあちゃんの姿など象徴(しょうちょう)的。ひざが悪いので椅子(いす)にするといった目的から入れば、西洋風のリビングもいいですけれどね。西欧(せいおう)風の住宅も、日本の気候に合わなかったり、個室が出来ても居間に集まる習性が残ってたり……。 
 第三段落(150〜200字) 方法2
 「第二の方法としては、日本の文化のよさを再発見することだ。」(第二の方法が視野を広げてできるだけ社会的に)確かに明治の開国から日本は進んだ西欧(せいおう)の文明を吸収することで発展してきました。しかし、経済がある程度豊かになった今、人々は生活の質、都市や地域の環境(かんきょう)、自らのアイデンティティと創造性といったものを重視するようになってきました。「外国人のほうが日本人らしい。」といったテーマの意見広告を目にしたりしますが、それではあまりに情けないですね。 
 第四段落(150〜200字) 反対意見への理解を入れながらまとめ
 「確かに、進んだものよいものを取り入れる柔軟(じゅうなん)性は大切である。しかし、私たちはもっと日本の文化を理解してその土台の上に外国のものを取り入れるべきである。」名言も考えてみましょう。名言集を参考に。キーワードを主語にして「○○とはAではなくBである。」に当てはめてみましょう。 ( k )
<当為(とうい)の主題>
 科学技術は文化や地域によって柔軟(じゅうなん)に変化して受け入れられると見るべきだ。
<方法の一つ目>
 輸入された科学技術は文化・地域によって変化すると考えるべきである。
 実例:清潔好きな日本人、ウォシュレットや電動歯ブラシが普及(ふきゅう)しているが、同じ先進技術レベルの韓国(かんこく)ではそれらは全く普及(ふきゅう)していない。
<方法の二つ目>
 ヨーロッパ生まれの科学技術を唯一(ゆいいつ)のものさしとして発展の進度を図るべきではない。
 実例:中進国シンガポールでは日本よりも駅のホームや電車が進んでいる。
<反対意見への理解>
 たしかにヨーロッパの科学技術のものさしは文明の発達をはかる上で役に立つかもしれない。しかし大切なのは、科学技術が一元的でないということだ。 ( b )
 ( s )
外国の文化(生活様式)をそのまま取り入れてない実例として、住居ー住み方があります。入口がドアの家は多くなりましたが、日本の家ではたいてい玄関(げんかん)で履物(はきもの)を脱ぎ(ぬぎ)、スリッパに履き(はき)替え(かえ)ます。「外」と「内」をはっきり区別するのが、日本の生活様式ですね。 ( s )