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題名:もう一度、教室の光景へと(感)
感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。
課題の長文
【二番目の長文が課題の長文です。】
【1】ひとりでいるときも、良心が働いている。誰も見ていなくても、道にごみを捨てようと思わない。そういう倫理観を、私たちは持っている。それは、自分の中に内在的な価値観があるからだ。遠い昔、父や母によって教えられられてきたしつけが、自然に自分の中に移しかえられ育まれて、自分自身の倫理観として育ってきたものだろう。【2】「天知る。地知る。子知る。我知る」という言葉がある。ふたりだけの隠し事と言っても、天も、地も、あなたも、私も知っている、という意味だ。この内在的な価値観が、社会の安定の基礎になっている。
【3】しかし、ここで問題になるのは、私たちが内在的な価値観に制約されることによって、真に自由な判断ができなくなってしまう場合もあるということだ。人がある宗教を信じる際の最も大きな要因は、その両親もその宗教を信じていたからだということが多い。【4】自分で選んだと思っていたものが、実は無意識のうちに刷り込まれた幼児期からの価値観だったとすれば、人間どうしの対話は根本的なところでやはり成り立たないだろう。
【5】では、どうしたらよいのだろうか。一つの対策は、自身の内在的な価値観に自覚的であることだ。私たちの多くは、自分の国や自分の民族に誇りを持っている。しかし、それは、往々にして他の国や他の民族に対する蔑視に結びつくことがある。それは、私たちの価値観が、実は他から刷り込まれたものであることを示している。【6】自分の価値観の原点を探れば、そこに両親だけでなく、マスメディアや政治や文化からの影響を見ることができるだろう。大事なことは、価値観を持つことではなく、自覚した価値観を持つことなのだ。∵
【7】もう一つの対策は、異なる価値観を持つ人どうしの間でオープンな対話を保証することだ。犬とサルが出会えば、喧嘩をするしかない。互いの相違を対話によって埋めるだけの共通の土俵がないからだ。【8】しかし、人間は、たとえ話す言語が異なっていても、異なる思想や価値観を共通の論理によって論じることができる。もしオープンな対話がなく、各人が自身の内在的な価値観だけによって生きていくだけなら、子供はのびのびと遊ぶべきたと考える人は、いつまでも子供を公共の場で騒ぎ回らせるだろう。【9】また、逆に公共の場では、子供もルールを守るべきだと考える人は、いつまでも騒ぐ子供を許せないだろう。この異なる価値観を対話によって止揚させるのが、犬やサルにはできない人間の知恵である。【0】
確かに、今の世の中を広く見渡せば、価値観の対立の問題よりも、価値観の不在の問題の方が大きいように見える。しかし、ある人にとって価値観の不在と見えることが、実はその相手にとっては明確な価値観に根差していることもある。例えば、「そのようなことは重要だとは思わないので、どちらでもいい」というのも一つの価値観だ「天知る。地知る。子知る。我知る」という故事は、そういう内在的な価値観を持っていたことに意義があるのではなく、その内在的な価値観が相手に伝わり共有できたというところに本当の意味があったと見なければならない。
(言葉の森長文作成委員会 Σ)∵
【1】もう一度、教室の光景へと目を転じよう。子どもたちの身体の異変は近年、いっそう顕著である。その変化はいくつでも列挙できるが、たとえば、都市部の小学校の高学年では、かつての中学校のように、授業が成立しない。【2】かつての中学校と違うのは、教師への反抗ではなくて教師への無視であることと、その無視の主役が女の子たちであることである。中学校と高校になると、アパシー(無気力と無感動)が教室を支配している。無表情で沈黙した生徒が教室に置物のように座っている。【3】声をかけると一瞬、身構えて緊張が走るが、呼びかけて待っても口を開くようすはない。もっとすごい話がある。小学校の一年生というと、まず「はい、はい」とツバメの巣のような教室から出発するのが常識だが、四月から一言も口を開かない一年生の教室が、いくつかの学校で見られるようになった。【4】この沈黙の背後には、もちろん陰湿ないじめが潜んでいる。幼稚園ですでに高学年までの洗礼を受けているのだろうか。
これら特異な現象だけでなく、教室における身体の異変は、もっと日常的に深く浸透している。
まず他者への無関心がある。【5】たとえば一人の子どもが「先生、消しゴムがない」と何度も言う。「先生、消しゴム」を連発するだけで、となりの子どもに「ねぇ、ちょっと消しゴム貸して」と言って借りる子は稀である。となりの子もとなりの子で「これ使っていいよ」と言う子も稀にしかいない。【6】ほとんどの子が他人事として聞き流しているし、よくて「先生、この子消しゴムがないって言ってるよ」なのである。中学校や高等学校の教室だと「○○君はいる?」と休憩時間にたずねても、いっこうに釈然としない。「おい、○○きょう来てたっけ」「さあ?」という調子である。【7】はなはだしい場合にはもう半年も経っているのに「○○って、うちのクラスだったっけ?」という声を聞くこともある。
他者への気配りがないわけではない。しかし、その気配りはすれ違っている。一つのエピソードを紹介しよう。【8】知人の教師が中学一年生の息子の授業参観に行ったときのことである。授業の最後に一人の女の子が挙手して「うるさくて先生の話が聞こえなくて、板書をノートにうつすことしかできなかった」と訴えて泣き出してしまった。【9】すると、そのとなりの席にいた知人の教師の息子∵が「先生、きょう、掃除はあるんですか」と大声で質問したと言う。知人の教師は、息子の行為に憤って授業のあとに詰問したところ、息子は、その女の子が窮地に陥るのを救出するためにわざわざ関係のない質問をしたのだと言う。【0】もちろん、彼の行為は女の子の窮地を救うどころか、ますます女の子の心の傷を深いものにしたのだが、そのことは、知人の息子にはわかっていなかったと言う。このようなすれ違いは、教室のいたるところで頻発している。
他者への無関心は、大人に対しては根底的な不信の感情となって現れている。大人と目と目を合わせて話をする子どもが少なくなった。語りかけてきても、ちらっと目を合わせると、すぐにまなざしを背けて話している。教師のほうも同様の問題を抱えている。子どもがまなざしを背けるものだから、教師のほうも微妙にまなざしを背けながら話しかけている。そういう繋がりのなかでは「出会い」も「対話」も生まれようがない。
モノとの出会いの経験も、著しく貧困である。商品としての「もの」が氾濫する一方で、自然と連なるモノの世界は、ますます子どもの生活から消滅しつつある。その端的な現れが道具の使用の経験の未熟さに見られる。小学校高学年でも、木工をやらせると、鋸を立てるように持って木材を手前から向こうに向けて切ろうとする子どもたちが少なくない。金槌を持たせると金属のところを握って釘を打とうとするし、はなはだしい場合には、作業台があるのに板を宙に掲げて打って、「釘が打てない」と教師に援助を求める子どももいる。まっとうに道具が使える子どもは皆無と言ってもよい。モノと出会いモノを道具によって操作する体験や文化が欠落しているのである。
言葉という道具においても同様の事情がある。「文字離れ」「活字離れ」は、いまや決定的と言ってよいだろう。小学校の低学年では読書は習慣化しているが、高学年になると活字離れが進行し、中学生や高校生になると六割から七割の生徒が月に一冊も本を読んでいない。読むことと書くこと(リテラシー)は自己を構成し世界を∵構成する基本的な作業だが、その文化は急速に衰退しつつある。郵政省の調査では、国民の七割が年賀状などの挨拶状を除いて一年間に一通も手紙を書かない状況を迎えているが、おそらく中学生と高校生に限定すると、その状況はもっと深刻だろう。一日平均三十分以上も電話をする彼らは、文字文化(リテラシー)の世界から遊離した世界を生きている。喪失しているのは、「私はこう思う(I think)」という一人称の語りであり、「あいつがこう言っている(He said.She said.)」というゴシップが、彼らの日常世界を構成しているのである。
項目表
項目表を参考にして、作文・感想文を書いてください。
項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森
項目表 ペンペングサ の苗 高1年 1~3月
目標:人文科学のテーマを書く書き方を身につける
★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
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課題のヒント
自己ハンディキャップという現象について
不運はいつも最悪の瞬間に襲ってくるように思われる。念願の仕事につくための面接を受けようとしている男が交通渋滞で動けなくなる。最終試験を受ける法科の学生が激しい頭痛で目を覚ます。競走の選手が大切なレースの直前に足首を捻挫する。いずれも非情な運命の好例である。
ところが本当に運命なのだろうか。このような不運な出来事を研究している心理学者は今では、多くの場合それは潜在意識によって入念に準備された計画であるかもしれない、と考えている。人はよく自己ハンディキャップ現象という名前で知られる一種の自滅的な行動をとることがある。すなわち、簡単な言葉でいえば弁解を作り出す行為である。やり方はいたって単純だ。重いハンディを背負うことによって、やろうとすることに失敗する可能性を高めるのである。こんなことをするのは正気の沙汰ではないように思われるが、実際これは心の巧妙な手口、失敗した時に体面を保つことができるような困難な状況を作り上げる手口なのだ。
自己にハンディを課す歴史的に名高い人物は、デシャペルという18世紀に生きたフランスのチェスの王者である。デシャペルは地元でたちまちチャンピオンとなるほどの名人であった。しかし競争が厳しいものになってくると、彼はすべての試合に新たな条件をつけた。対戦相手が一定の有利な条件を受け入れる場合に限って勝負をするというのである。これによってデシャペルが負ける可能性は大きくなる。これだと、仮に敗れても相手側の有利な条件のせいにでき、誰も彼の能力の本当の限界を知ることがない。だが、もしこのようなハンディにもかかわらず彼が勝てば、その驚くべき才能ゆえに一層敬意を払われることになるだろう、というわけだ。
弁解作りの常習者に一番なりそうな人というのが成功欲の強すぎる人であるというのは驚くにあたらない。このような人たちは何事にせよ失敗者のレッテルを貼られるのを非常に恐れるので、失敗を正当化するために何らかのハンディをたえず作り出すのである。たしかに自己ハンディは時には成功への不安をうまく処理する効果的な手段となることもあるが、研究者たちがいうように、こんなことをしていると結局は損をすることになる。結局最後には、弁解を作り出す人は自分の本当の潜在能力を実現することができず、自分がそれほどまでに関心を抱いている地位を失うことになるのだ。さらに、そんなことはないといくら異議を唱えたところで、責任は本人以外にはないのである。 ( n )
内容:現在の子供に見られる問題として、まず他者への無関心と気配りのなさがある。次にモノとの出合いの経験に乏しく道具の使用が未熟であることが挙げられる。言葉という道具についても活字離れが進行している。
解説:現在の子供と言われても、比較する基準のない高校生のみなさんには納得しにくいと思います。むしろ現在の社会の問題としてとらえるといいでしょう。
都会では、隣人に対する無関心が広がっています。昔は、朝ご飯を作るのにお味噌が足りなくなったから隣のうちから借りてきてというようなことがありました。いまは、そのような光景はまずありません。それどころか、道端で人が倒れていても、「お、ちょっとごめんよ」とまたいで通り過ぎてしまうような光景があちこちで見られます。(ないない)
また、モノとの出合いの少なさや、道具使用の未熟さもよく見られます。昔は、夏は汗をかくもので、冬は寒くてふるえるもので、鉛筆はナイフで削るもので、ご飯はかまどで炊くものでしたが、今は、夏はクーラー、冬はホットカーペット、セブンイレブンでシャーペンを買って、おかずはレンジでチンという生活です。自動車の免許なども、昔はエンジンの仕組みを知らなければ試験に合格しませんでしたが、今のようなハイテクのエンジンになると、なまじ仕組みを知らないほうが操作しやすいという皮肉な状態が生まれています。
しかし、道具の使用が未熟になるというのは、時代の流れを見ればある意味で当然のことです。今では、自分で矢じりを作って、木と木をこすりあわせて火をおこし、落とし穴を掘ってイノシシをつかまえるというような生活をする必要はないからです。問題は、道具の使用が未熟になったり、他者との関わりが希薄になったりしていることそのものではなく、そのことによって、生きる実感や生きる喜びが失われているのではないかということにあります。
他者、モノ、道具、言葉との関わりの薄さということを社会問題として考えてみましょう。 ( n )
第一段落は、要約と意見(当為の主題)。「もっと物との関わりを持つべきだ。」
第二段落はその方法と体験実例。「そのためには、手作りの価値を見直すことだ。私もこの前、バレンタインデーのチョコレートを自分で作って、みんなにあげた。」
第三段落は、方法2と歴史実例。「また、学校教育では、実験や調査など、物や人との関わりを必要とする授業に、もっと力を入れていくべきだ。エジソンは、小学校をやめたあと、母親の用意してくれた実験道具でさまざまな実験をした。そのことが後年の発明王の基盤を築いた(歴史)。」
第四段落は、反対理解と自作名言、又はことわざの加工。「確かに、今日では情報処理のセンスを身につけておくことも大切だ。しかし、その根底には物や人との関わりがなければならない。情報に意味があるのは、情報そのものに価値があるからではなく、その情報が背後の実体に結びついているからである。鵜(う)の真似をする烏(からす)は、水に溺(おぼ)れる。カラスは、真似をするのではなく、実際に泳ぐ練習をするべきだったのである。」 ( n )

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