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題名:私は長いこと京都に(感)
感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。
課題の長文
【1】私は長いこと京都に住んで毎日のように道で僧侶と出会ったし、時には寺院をおとずれて、そこに住む僧職の方と対面することも多かったが、どのお顔もなべて、迷いも悩みも知らぬ(と見える)平穏無事な、ふっくらとしたお顔ばかりであるのが、昔から不思議に思われてしかたがなかった。【2】僧服をまとう身とあれば、日々これ仏法、「日々これ好日」、さればこそこのような満ち足りたお顔がそろうことになるのだろうか。
【3】しかし私からすると、僧という身分であることほど怖いことはない。臨済和尚は、「自分を救う者は自分のほかにはない」と言ったが、一個の人間が僧服をまとう身になることを決断するに当たっては、まず他者への救済者として自立できるより前に、それに先立つ自分自らの始末がつけられているはずである。【4】あるいは僧となることそのことによって、自らの在りかたに決着をつけようとする覚悟あってのことであるはずだと思われる。それなのに、あののびやかな、時には堂々と俗臭を漂わせたお顔は、一体どういうことなのであろう。
【5】思うに、現代日本の僧侶は、ほとんど例外なく、宗教者・求道者たることを自らの天職として選び取ったという人びとではなく、いわば職業人として僧職に就くことを他律的に条件づけられてそうなったという人びとが大半を占めるであろう。【6】そして、ひとたび僧衣をまとい、僧の座に坐ることになると、僧たることのステータスそのものがその人を安住させ定着させることになって、自らを突き放して見すえる眼も心も失われてゆく、という成りゆきになるのではなかろうか。【7】まして、その人が或る宗門や教団のなかで一つの職位に就くことにでもなれば、その地位自体がその人の護符となって、安定度はいよいよ高まり、その風格はいよいよ板につき、その説法もいよいよ堂に入った巧みさを加えるであろう。【8】そして、それと反比例して、自らを一個の人間に戻し、その裸身を改めて見つめ直すという宗教者としての基本的な心構えは、霧のように消えてゆくであろう。∵
【9】このことの怖ろしさを、私はかつて旧制中学の教師だった時に身に沁みて体験した。赴任してから一週間たって気がついたことは、教員室の空気の退廃であった。【0】彼ら教師たちの話題の下劣さと、それに引きかえての高慢なエリート意識、そして陰にこもった個人や派閥の間の反目などなど……。これは大きなショックだった。そして、なぜこうなのだろうと考えてみた。ハタと思い当たったのは、教師たちが日ごろ相手にしているのが、自分たちよりも年齢の低い生徒たちばかりであるという環境そのものにその理由がありそうだということだった。そう思い当たって、私は背すじがぞっとする思いだった。幼い子を相手に同じことを教えてばかりいると、自分自身の勉強はおろそかになるばかりか、自分の今の在りようや生き方を省みるということもしなくなる。それをしなくても、教師という職業は結構つとまるからである。こんな怖いことはない。見回したところ、「背に負うた子に教えられる」といった初心を忘れずにいそうな教師は、一人も見当たらない。みんな教室での教え方は堂に入ったその道のベテラン教師ばかりである。しかし、その人たちの世間話のなんと低劣なことか。これでは、長く教師をつとめたら、人間の成長は止まってしまうこと必定だと、私は思い知った。そして三年で退職してしまった。
およそ人間として成長するためには、絶えず現在の自分の生き方を恥じることが必要であろう。自らを恥じるとは、自らを客観視する別の眼をもち得ることである。現在の環境に埋没することなく、つまり現在の職業や地位に腰を据えてしまうことなしに、自分の新たな可能性を絶えず開拓しようとする気魄をもち続けること、このことこそが、およそ道を求める者の――社会人たると宗教者たるとを問わず――もっとも基本的な要件であろう。まして人に向かって法を説き、ひとかどの救済者として自立するほどの人であれば、なおさら、自らをその道の完成者として完結させてしまってはならぬはずである。もし、いささかでも自己完成者としての意識が残っていたら、その人はすでに救済者たる資格はない。しかし、この痛切なディレンマを乗り越えるための苦悩を知らぬ説法者が、今は余りにも多い。 (入矢義高「人を救うということ」)
項目表
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項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森
項目表 プラタナス の苗 高1年 10~12月
目標:人文科学のテーマを書く書き方を身につける
★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
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課題のヒント
input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. 現在、私たちはロボット時代の黎明期に立っている。約25、000台のロボットが現在世界にあり、1990年までには約115、000台になるであろうと見積られている。
現在の単純な構造においてさえ、ロボットが重要視されているのは、現在ないしは近い将来ロボットに任せられる作業の種類による。ロボットは危険な仕事を引き受けることができるし、危険な状況にも耐えることができる。そうした危険な仕事や状況は人間ならできるだけ避けたいと思うし、これまではやむをえず人間が従事してきたものなのだ。ロボットは宇宙空間、鉱山、水中で作業するであろうし、爆発物、放射性物質、有毒な化学薬品、病原菌、異常な温度や圧力や高度などに対処するだろう。
とりわけ、物理的に危険でなくても非常に単調でつまらないので、長い期間それに従事しなければならないいかなる人間の精神をも鈍化させ、堕落させる作業をロボットにはさせることができる。この精神に有害な作業がロボットにはまさにうってつけなのだ。なぜならロボットはその作業に退屈したり不機嫌になったりすることなく、無限に従事することができるからである。しかもその作業をより確実に、正確に行うこともできる。その結果として、人間はそのような非人間的な作業から解放され、自由に、より創造的なことに力を注ぐことができるようになるだろう。
しかし、この展望に有頂天になる前に、「望まない仕事から解放される」ということは「仕事にあぶれる」ということだと解釈されるのも無理からぬことだということを思い起こそう。外側からながめている人には望ましからぬように見えるかもしれない仕事も、その仕事をしている人にとっては生きる糧なのだ。換言すれば、ロボットが導入されれば必然的に科学技術の進歩による失業の脅威を引き起こし、それとともに経済的安定が失われ、人間としての自尊心がなくなっていくのである。
科学技術の進歩は常に人類とともにあったし、そのような進歩はそれが破壊するよりはさらに多くの仕事を生み出すということは歴史が証明していると主張する人がいるかもしれない。自動車の発明は大勢の鍛冶屋や馬車の製造者から仕事を奪い、むちや乾草に対する需要を減少させた。しかし、自動車の発明ははるかに多くの自動車関連産業を生み出し、ガソリン、ゴム、高速道路に対する需要を飛躍的に拡大し広げた。
しかし、失業の恐れよりももっと劇的な恐れがある。人類がロボットによって殺されるということはありえないことなのだろうか。ロボットが戦士になるよう設計され、プログラム化されることがありうるのではないか。現在戦闘に用いられている破壊のための機械装置がコソピュータ化の助けをかりてより恐ろしいものにされるのではないだろうか。
人類がほとんどあらゆる科学技術の進歩を破壊的推進力として利用してきたことは確かなことである。しかし、人類は文明が1日にして破壊されうるところにまですでに戦争を引き起こす力をもたらしてきている。私たちはこの点では、ロボットを禁止することによって私たち自身を救うことはできないのである。世界中で人々は戦争を恐れ、この世界中に広がっている戦争に対する恐怖は年々大きくなっているので、戦争に終止符をうつことに成功するかもしれない。そうなれば戦士のロボットはなくなるだろう。
しかしロボット、そして一般的にはコンピュータの可能性のある危険のうちでなおもう1つ別の、そして多分最も極端なものについて考えてみよう。ロボットは今までよりもより精巧に、より有能に作られるであろう。自在に動かせる手やいろいろな感覚をそなえたものが設計されるだろう。やがては理性のようなものの能力をそなえたものさえ組み立てられるかもしれない。こうしたロボットがさらに多くの仕事、より複雑な仕事、より創造的な仕事を引き継ぐことはありえないことなのだろうか。
人類が次々と別の仕事に移し変えられなければならなくなり、ロボットには任せられないことをいつも探し求め、ロボットが容赦なくより高度な程度へと追いかけてきて、ついに人間がすることは何もなくなるということはありえないことだろうか。人類はのらりくらりと退屈に生活することを余儀なくされて、あえて人生に意味を見出すことが全くなくなり、死に絶えてしまうのではないだろうか。端的にいえば、「ホモ・サピエンス」(賢い人)はまずすたれて、やがて絶滅してしまい、ロボットが「ホモ・スーピリァ」(優秀な人)として引き継ぐことになるのではないかということである。
このことが結局、論理的にも合理的にも発展といえるのではないだろうかと皮肉にも思うことが可能なのだ。人類よりも力強く、より知的なロボットがやがて発明され、彼らに現在人間が保持しているよりも高い社会的義務感を与えれば、ロボットが人間にとって代わるのも当然のことではないのだろうか。
しかしこのようなことは陰うつな、不愉快な想像である。人間には魅力的ですばらしいものがたくさん現在もあるし、これまでもあったし、今後もあり続けるであろう。だからロボット、そして一般的にはコンピュータの手助けを得て、私たちはまた私たち自身および世界を救えるかもしれない。
さらに、私たちはあきらめてロボットが人間にとって代わるのを甘んじて受け入れようとするかもしれないが、このことは不可能であるかもしれない。人の頭脳はそう簡単に匹敵されるものでないし、まして陵駕されるものではない。
コンピュータが作動するように設計されているものは本質上、数の計算に関するものである。外見上いかに複雑に見えるものでも、明確な一連の算数計算ができるように何とか細かく分けられる問題ならどんなものでもコンピュータによって解決されうる。私たちが驚かされるコンピュータの性能というのは、コンピュー夕が処理しうる算数計算の特質から生ずるのではなくて、コンピュータがこうした計算を1秒の1、000分の1という時間で、しかも誤りなくやってしまえる事実から生じている。
これに対して、人の頭脳は信じがたいほど数の計算は苦手である。最も単純な問題を解くためにも人の頭脳は外的な援助を必要とするし、必要としてきた。自分の指で数えることから始まって、どんどん高度なものに進んでいき、そろばん、ペンと紙、アラビア数字、対数、計算尺、計算器、そしてついにコンピュータの助けをかりるようになったのである。
人の頭脳がやるべきことは数の巧妙な取り扱いでは全然ない。人の頭脳のやるべきことは判断と創造的思考を取り扱うことであり、これまでも常にそうしてきたのだ。判断と創造的思考を取り扱うことというのは、不十分な証拠に基づいて合理的な結論に達するこつであり、哲学的に、洞察的に、空想的に、想像的に考えられる技巧であり、私たちをとりまく世界から、また私たちがいなけれは決して存在しない私たち自身が形成するものから、美や興奮や喜びを抽出する能力のことである。
このようなことをすることのできるロボットを私たちは究極的に組み立てることができないであろうか。そうするのは簡単ではないであろう。まず初めに、私たちはどのようにしてこのようなことをしているのかわかっていない。だから、ロボットの行動を人間の様式にしたがって行動するように組織する問題は本当に困難であろう。
ほとんどどんな人間でも、たとえごく平均的に見える人でさえ、どのようにしてそれを行っているのか知らないで、とても上手に何かをすることができる。そして、これらすべてのことは、多分ロボットなら決してしないであろう人間的なことなのである。見世物的なものとして、私たちは初歩的なやり方で何か人間的なことをするロボットを組み立てることにやがて成功するかもしれないが、どんな人間でもはるかに上手にそんなことはやってのけられるのに、どうしてロボットを組み立てようと苦心するのか。
いや、たとえ人間の技術が現世人を凌ぐヒトを生むことができるとしても、それが私たち人間のなかから出現するのは当然のことである。遺伝子工学の新たに開発された技術を用いて、多分私たちは私たちの頭脳を改良し、その有効性を高める方法を学ぶであろう。またその一方で、ロボットの性能を高めるようにもなるであろう。実際のところ、人間の開発したコンピュータが私たちが自分たちの頭脳を改良する手助けをし、人間の改良された頭脳が私たちが自分たちのロボットの設計を改良する手助けをする、というように馬跳び式になるであろう。
究極的な結果は、ロボットと人類は互いにそれぞれがやるのに適したことをさらによりよいやり方ですることにより、平行した道を歩んで発達を続けるということになるであろう。相互が広範囲にわたって異なった能力を有しているので、人類とロボット双方には常に発達の余地があるであろう。競い合う敵というよりも協力する味方として、私たちは宇宙の動きとその法則の賢明な利用法をより深く理解することが可能となり、双方が単独でなんとか精一杯できる以上に双方で協力してはるかに多くのことを成就することができるであろう。 ( n )
宗教や教育に携わる人を批判していますが、大人全体についても言えそうです。自分の現在の位置に満足したときに成長は止まるということで、今日の安定した社会で自己満足に陥らないで生きていくためには……という主題で考えていくといいと思います。 ( n )
( n )
第3段落を「外部との交流を盛んにし、柔軟な組織にすることだ。」などとした場合の「歴史実例」。
現代の会社などにもありがちですが、江戸幕府も世襲制(リーダーの子供がその地位を受けつぐこと)だったため、安定はしたが組織は硬直化しました。地位を守るための悪政も多かったようです。
会社でも、だいたい事業を興して拡大した初代はすばらしくても、2代目あたりでやや傾き始め、3代目になると苦しくなる、というパターンが多いようです。もちろん、うまく外部の力を取り込んで拡大を続ける会社もありますが。長文にも宗教や教育の例が出ていますが、結局のところ、身内の利益を優先するようになるとおかしくなるようです。 ( h )

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