input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. ウィリアム=ゴールディングは、自作の『蝿の王』は、「社会の欠陥が生まれた原因を、人間の本性の欠陥に求めようとする試み」であると語った。子供たちを無人島に置き去りにすることで、彼は、人間の中で最も無垢な子供ですら、そのうちにはありとあらゆる悪行ができ、また実際にやってみたいという気持ちに駆られる獣のようなものがひそんでいることを示してみせた。ゴールディング自身の説明によると、このぞっとするような見解は第二次世界大戦によって生まれたもので、この戦争中に、立派な人物だと思われていた人々が、「原悪」という言葉でしか説明のつかないような行動をとったのだ。
多くの宗教関係者たちも認めたように、ゴールディングの物語は、単にファシズムに対する反応といってすませられるようなものではなかった。それは、もともと古代ギリシア人が発案したが10世紀のフランスの哲学者、ジャン=ジャック・ルソーがその最も熱烈な支持者となったある思想に対する、説得力のある反論であった。その思想は、ルソーの書物にあまねく見られ、要約すると、教育に関する彼の思索の書である『エミール』の書き出しにあるように、「神の手を出るときはすべてのものが善であるが、人間の手に移されるとすべてのものが悪くなってしまう」というものである。ルソーの論ずるところでは、人間は本来、無垢で気高く、もし原悪というようなものが存在するなら、それは社会体制から生じるもので、その体制とは不正を基盤とするもので、そのために人は常に互いに反目しあうことになるのだ。ルソーの描く、実在しない気高い自然人、エミールの肖像は、中世キリスト教の描いた暗澹たる人類の肖像に強引にとって代わるものとなり、19世紀、20世紀の人道主義のみならず、18世紀のロマン主義とフランス革命を喚起する力となったのである。
人間の本性に対するルソーのとらえ方と、ゴールディングのとらえ方が重要性をもっているのは、今日に至るまで、それらが道徳心の発達に関する論争の本質を明らかにしているからである。ルソー主義の中でも極端なのは、教育の目的は、子供が生まれながらにして備えている善性を、文明の邪悪な面から子供を隔離しつつ育てていくこととすべきだという考え方である。ルソーは、教育は子供の本性に合わせるようにすべきであって、その本性を社会的に定められた目標に沿うべくゆがめるようなことがあってはならないと提唱した。実際ルソーは、自然の秩序に従うことを、教育の最終的道徳目標にすべきだと信じていたのだ。
今日では著名な人道主義的教育(学)者でこのような考え方を何の手も加えずそのままの形で支持している人を見つけようとするならひどく苦労するだろう。ルソーには、親ならみな、自分自身の子供たちのうちに発見してぞっとした、自己中心性、激しい怒り、残忍さなどは目に入らなかったようだ。さらに重要なことに、20世紀の、他にも多くの惨事は言うに及ばず、第二次世界大戦に直面したとき、たいていの人々が、ゴールディングと同様、どんな人間でも、ある種の状況の下では、自分以外の人間に対して残虐行為をすることが可能だということを認めざるをえなかったのである。こういうつらい教訓を考慮すると、ルソー主義の人間の本性に対するとらえ方にも修正が加わり、人間は生まれながらにして無垢だというわけではないが、それでもやはり善良で気高くなれる素質は備えているのだということになる。
この控え目な表現に代わった人道主義ですら、この方面で全く逆の立場をとる人々にとっては好ましくないもので、そのような人たちは、ゴールディングや中世キリスト教徒と同様、人間の本性は悪である、あるいは少なくとも道徳など気にもかけていないと信じている。こう確信している人々は、国内の子供たちの大部分が社会に見捨てられてきた――言い換えれば、事実上、家庭や学校、教会、隣人などから教化的影響を受けるどころか、大部分が都会の孤島で難破してしまったようなものだと考えている。その議論によれば、もし、これら、親から見放された子供たちが無理にでもある特定の道徳律を身につけるようにしむけられたのであれば、彼らのうちにひそむ獣性が外に出て、社会を蝕むことなどなかったろうに、ということになるのだ。
これは今日では支配的な受け止め方である。教育者、公務員、刑事裁判の制度を代表する人たちで、今のアメリカの若者が堕落しているのは大人たちが道徳教育をする能力がなかったか、したがらなかったか、そのいずれかの結果であると断言しないような人はごく稀である。元文部次官のゲーリー=バウアーは次のように語っている。
このイデオロギーによると、子供たちには本来、正しい道徳的判断を下す能力はないのだから、バウアーのあげた一連の社会悪を解決するには、元文部長官のウィリアム=べネットの考えでは、教化しかないというのだ。これは、親や教師や他にもその道の権威が伝えてきた規律を取り入れるということであった。最近、ジョージ=ブッシュ大統領に任命され、不法な麻薬使用に対する国をあげての戦いの先頭に立つことになったべネットは、同じ議論を繰り返している。すなわち、例えば麻薬問題などは、大人の側が、若者たちに正しい道徳律を教え込むことができなかったために起きているというのである。
子供たちの道徳心の発達に対する人々の関心が高まり、政策を作る側もそれを重視するのであれば、バウアーやべネットやその他、いわゆる伝統主義者たちのように公の論争を左右する人たちが、このテーマに関する科学的研究を顧みないでいるのは残念なことである。新聞や雑誌に出ている話からはとても推し測れないであろうが、発達心理学者たちは、1960年代以降、子供たちが道徳的・社会的価値の基準を身につけていく過程に関して、ある程度の同意に達してきた。このことが示されているのは、ジェローム=ケーガンとシャロン=ラムが編集し、道徳心の発達に関するあらゆる科学的理論を検証した、『年少児における道徳心のあらわれ』や、ウィリアム=デーモンによる、社会科学者と政策を作る側とのギャップを埋めることをねらった、『道徳的子供――子供たちの自然な道徳的成長の育成』などである。これらの本から浮かびあがってくる人間の本性についての描写は、ゴールディングの自制心を失った男生徒たちの物語ほど悲観的なものではないが、それでも、気高く無垢なる子供の正しい育て方についてルソーが抱いた幻想よりは現実的である。悪魔でも天使でもなく、人は何ものにもまして社会的動物――善悪両方の素性をもつ生き物であって、その道徳心の発達は、自分たちの文化に対してと同様、自身の体質や気質に負うところも大きいのだ。 ( n )
解説:人間は、文化=記号=言葉によって混沌とした世界に秩序を与えるという話です。だから逆に文化の中に組み入れられていない周辺部については、禁忌感情が働くと述べられています。これを現代の社会の問題として考えてみましょう。ある一つの文化に属することで世界の見方に枠組みを与えられ、異なる文化の見方を許容できなくなるというようなところが問題点として考えられそうです。いつも同じ黒髪、肌色の日本人を見ていると、肌の色が違ったり髪の色が違ったりする人を見るとき、一種の忌避感情が働きます。「おまえ、茶髪なんてやめろよなあ」という具合に。身近な例を通して考えてみましょう。 ( n )
第一段落は要約と意見(当為の主題)。「人間は文化を通して世界を見ている。自分の狭い世界を基準として他の文化を忌避するべきではない。」n n 第二段落は、その方法と体験実例。「そのための方法としては、第一に、自分の理解しがたいものに対してもできるだけ理解しようと努めることだ。私も、昔は茶髪やピアスに抵抗があったが、今は、髪が泥で固めてあって、鼻の穴に骨をさして歩いている人を見ても平気になった。」n n 第三段落は、方法2と歴史実例。「また、第二の方法としては、学校などで子供のころから幅広い体験をさせ、異文化と接触する機会を持たせることである。歴史上の例を見ると、明治維新は、日本人が民族として急激な異文化体験をした時代である。しかし、このことによって、従来の日本人の枠を打ち破るような人物が多数登場した。」n n 第四段落は、反対理解と自作名言。「確かに、自分の文化の枠組みで物事を見ることは、物の見方の効率化につながる。犬はワンワンと鳴くという共通の文化があるから話もスムーズに進む。小学生がダリのような絵をかき出したら、だりでも危ないと思うだろう。しかし……。文化は、認識の幅を狭める枠組みではなく、幅を広める枠組みでなければならない。」n n ( n )
体験実例は海外旅行などの思い出におおいのではないでしょうか。
私は韓国に行ったとき仰天しました。男と男が手をつないで歩いている! 腕を組んで歩いている! 女もしかり。同じ布団で寝るのも違和感ないそうです。下宿は独り住まいではなく3人くらいでアパートを借りるのが多いのです。みんなで外食するときはみんな同じメニューを注文します。なぜなら早く食べたいから(笑)。 韓国の食堂やカフェでは食べ物の持ち込みができるのです。長く住んでいるとそれに慣れてしまって、日本に帰国したとき、レストランに他の店のケーキを持ち込んで食べようとひろげたら、マスターに怒鳴られ追い出されました。ちなみに私じゃありませんよ。
オーストラリアで夏に生活したとき、蚊がぶんぶん飛んでいるのに、網戸なんてものはなく、蚊取り線香なんてものもなく、それなのに窓を開け放して寝るのです。これは仰天というか、困り果てました。
あちらは草地にヒルがわんさかいるのですが、これも足にいっぱいヒルをひっつけてても平気でいます。
そして学校のトイレは便座がない! 校舎のニ階や三階の外廊下にはフェンスがない! さすがにこれは恐ろしかった‥‥。
こうしていろいろ思い返してみると、体験実例は掃いて捨てるほどありますね。
でもこういった生活習慣あるいは文化の違いというのは、情報流通の国際化とともに均一化されている面もあります。日本がその好例なのではないでしょうか。
そういった面から感想文を書いてみることも面白い内容になりますね。 ( b )