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級:★   山:wapu   年:★   月:12   週:2  苗:wapu
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題名:人間以外の動物は(感)

感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。

課題の長文
 【1】人間以外の動物は普通(ふつう)「本能」の赴く(おもむ )ままに行動するとき、そこに迷いや不安はない。彼ら(かれ )にとっては、世界は予め秩序(ちつじょ)を与え(あた )られているのであって、自らがそれを創り出す必要がないからである。つまり、選択(せんたく)の余地がないのである。【2】それに対して人間は、そのような「本能」の導きを失い、従って、混沌(こんとん)と化した世界に対して、素手で働きかけることができず、文化という装置を創り出すことによって、再び秩序(ちつじょ)をとり戻し(もど )てきたのである。【3】人間がしばしば、文化を持った生物と呼ばれる理由はそこにある。
 何故人間のみが、そのような特異な生物への「進化」の道を歩んだのかということは、それ自体非常に興味のある問題であるが、ここでは本題に外れるので触れ(ふ )ない。【4】その代わりに、文化を持った生物となってしまった人間が、環境(かんきょう)の変化に対して、他の種のように何世代にもわたって徐々に(じょじょ )自らを変えて、その変化に適応するということをせず、自らが創り出した文化という装置を操作することによって適応してきたということが、どのような意味を持つようになったかということを考えてゆきたい。
 【5】今述べたように、あるがままの混沌(こんとん)の世界に対して、文化という装置によって秩序(ちつじょ)を回復する試みが行なわれ、それによって、人間は世界を解釈(かいしゃく)することができるようになるのであるが、その解釈(かいしゃく)が有効であるためには、集団の成員によるその承認を必要とする。【6】つまり、文化が文化として機能するためには、社会制度化されなければならないのである。ところが、このような社会制度化された文化が、一旦(いったん)成立すると、今度はその文化そのものが、人間にとって、いわば第二の自然として、人間の行動を規制してくることになる。【7】したがって、「文化」はもともと「自然」と対立する概念(がいねん)ではあるが、人間は文化の枠内(わくない)でしか行動しえないものであってみれば、ある意味では文化=自然という関係が成立してくるとさえ言えるのである。
 (中略)
 【8】人間は客観的世界にのみに生きているのでもないし、通常理解されているような社会的活動の世界にのみ生きているのでもなく、その社会の表現手段となっている特定の言語に強い影響(えいきょう)を受けているのである。【9】本来言語を使わないで現実に適応できると考えたり、言語をコミュニケーションや、内省の特定の問題を解くため∵の偶然(ぐうぜん)の手段であると考えるのは全くの幻想(げんそう)にすぎない。【0】事実は、「現実世界」というのは、かなりの程度まで、その言語使用者の集団の言語習慣の上に無意識に築かれているのである。どの二つの言語をとってみても、同じ社会的現実を表わしていると考えられる程似た言語はないのである。異なる社会が生きている世界は別の世界であり、単に異なるレッテルが付けられた同一の世界ではないのである。
 すなわち、われわれは全人類が例外なく持っている言語という文化装置(記号体系)を通してしか現実を構成することができないのであり、したがって、それぞれの言語という記号体系が異なれば、見えてくる世界も違っ(ちが )たものになってくるのである。このことは、あるものをそれとして認識できるのは、普通(ふつう)、それに名称(めいしょう)が与え(あた )られている場合であることを考えても、容易に想像されるだろう。それまでは何気なく見過ごしてきた路傍(ろぼう)の花が、その名称(めいしょう)を知ることによって、急にいきいきとした存在感を持って知覚されてくることは誰(だれ)でも経験したに違い(ちが )ない。つまり、名称(めいしょう)という記号表現を与え(あた )られて初めて、その花はわれわれに意味を待った存在として現われてくるのである。繰り返し(く かえ )て言うと、文化という装置は、もともと自然の混沌(こんとん)に秩序(ちつじょ)を与える(あた  )ために、人間が集団としてある意味では恣意(しい)的に創り出した記号体系であるが、一旦(いったん)できあがるとそれは自立性を獲得(かくとく)し、逆にその創造者を呪縛(じゅばく)するようになるのである。このようにして、人間はもはや文化という装置なしでは生きていけない存在になってしまったのである。
 文化をこのように、人間が集団として恣意(しい)的に創り出した記号体系として捉える(とら  )ならば、各文化間の相違(そうい)が現われてくるのは当然であるが、それのみでなく、その分節がある意味では恣意(しい)的でありうるが故に、文化の行なう秩序(ちつじょ)化(=分類)からはみ出してくる部分が出てくるのは想像に難くない。そのはみ出した部分をそのままにしておくことは、秩序(ちつじょ)の破壊(はかい)につながってくるため、文化にとっては危険な存在になる。そのため、文化は、そのはみ出した部分を、消極的には「見えないもの」(インビジブル)として、積極的には禁忌(きんき)(タブー)として抑圧(よくあつ)する必要があるのである。
 (池上嘉彦()・山中桂一()・唐()須()教光「文化記号論」より)

項目表

項目表を参考にして、作文・感想文を書いてください。 項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森 
項目表 プラタナス の苗 高1年 10~12月
目標:人文科学のテーマを書く書き方を身につける
 ★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
第 1 段落項目キーワード説明
構成 ○ 題名の工夫題名の工夫 <<構成>>「○○な○○」「○○の○○」のように工夫
構成 ○ 四段落構成 大きく四つぐらいの部分に分けて書く
構成 ◎ 書き出しの工夫書き出しの工夫 <<構成>>会話・色・音・情景で書き出す
主題 【】★ 当為の主題べき 当為 <<主題>>私はAべきだと思う
             ↓
第 2 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の方法一方法 <<構成>>…の方法としては第一に
題材 ◎ 体験実例体験 私 わたし 僕 ぼく <<題材>>自分らしい体験実例を書く
表現 ○ たとえまるで みたい よう <<表現>>まるで…のよう
主題 ○ 途中の感想 途中で主題に関連した感想を書く
             ↓
第 3 段落項目キーワード説明
構成 【】★ 複数の方法二方法 <<構成>>…の方法としては第二に
題材 【】★ 歴史実例・長文実例歴史 長文 <<題材>>歴史の実例・長文集の実例
表現 ◎ ユーモア表現笑 爆 ユーモア <<表現>>ユーモアのある表現(笑)
表現 【】★ ことわざの加工ことわざ <<表現>>ことわざや名言や流行語を加工する
             ↓
第 4 段落項目キーワード説明
主題 【】★ 反対意見への理解確かに <<主題>>確かにBもよいが、しかしAが
表現 【】★ 自作名言ではなく でなく 自作名言 <<表現>>「○○とはAではなくBである。」という形の文
主題 【】★ 当為の主題べき 当為 <<主題>>私はAべきだと思う
構成 【】★ 書き出しの結び書き出しの結び <<構成>>書き出しのキーワードを使って結ぶ

字数 ★ 1000字以上
表記 ○ 決めてくる、読みかえす書くことを決めてくる、書いたあと読み返す
表記 ★ 制限時間75分書き始めから書き終わりまで75分で
表記 ○ 構成メモ作文を書く前に構成メモを書く
表記 ○ 漢字を使う、ていねいに書く習った漢字を使いていねいに書く
表記 ○ 段落三文段落の目安は三文ぐらい
表記 ○ 一文一点読点は1文に1〜2点を目安に
表記 ○ 常体で書くした・だった・であるなどで書く練習
表記 ○ 誤字一ヶ所以内一つの作品に誤字は一つまで


課題のヒント

input-buffer overflow. The line is split. use -b #SIZE option. ウィリアム=ゴールディングは、自作の『蝿の王』は、「社会の欠陥(けっかん)が生まれた原因を、人間の本性の欠陥(けっかん)に求めようとする試み」であると語った。子供たちを無人島に置き去りにすることで、彼(かれ)は、人間の中で最も無垢な子供ですら、そのうちにはありとあらゆる悪行ができ、また実際にやってみたいという気持ちに駆ら(から)れる獣(しし)のようなものがひそんでいることを示してみせた。ゴールディング自身の説明によると、このぞっとするような見解は第二次世界大戦によって生まれたもので、この戦争中に、立派な人物だと思われていた人々が、「原悪」という言葉でしか説明のつかないような行動をとったのだ。
 多くの宗教関係者たちも認めたように、ゴールディングの物語は、単にファシズムに対する反応といってすませられるようなものではなかった。それは、もともと古代ギリシア人が発案したが10世紀のフランスの哲学(てつがく)者、ジャン=ジャック・ルソーがその最も熱烈(ねつれつ)な支持者となったある思想に対する、説得力のある反論であった。その思想は、ルソーの書物にあまねく見られ、要約すると、教育に関する彼(かれ)の思索(しさく)の書である『エミール』の書き出しにあるように、「神の手を出るときはすべてのものが善であるが、人間の手に移されるとすべてのものが悪くなってしまう」というものである。ルソーの論ずるところでは、人間は本来、無垢で気高く、もし原悪というようなものが存在するなら、それは社会体制から生じるもので、その体制とは不正を基盤(きばん)とするもので、そのために人は常に互いに(たがいに)反目しあうことになるのだ。ルソーの描く(えがく)、実在しない気高い自然人、エミールの肖像(しょうぞう)は、中世キリスト教の描い(えがい)た暗澹たる人類の肖像(しょうぞう)に強引にとって代わるものとなり、19世紀、20世紀の人道主義のみならず、18世紀のロマン主義とフランス革命を喚起(かんき)する力となったのである。
 人間の本性に対するルソーのとらえ方と、ゴールディングのとらえ方が重要性をもっているのは、今日に至るまで、それらが道徳心の発達に関する論争の本質を明らかにしているからである。ルソー主義の中でも極端(きょくたん)なのは、教育の目的は、子供が生まれながらにして備えている善性を、文明の邪悪(じゃあく)な面から子供を隔離(かくり)しつつ育てていくこととすべきだという考え方である。ルソーは、教育は子供の本性に合わせるようにすべきであって、その本性を社会的に定められた目標に沿うべくゆがめるようなことがあってはならないと提唱した。実際ルソーは、自然の秩序(ちつじょ)に従うことを、教育の最終的道徳目標にすべきだと信じていたのだ。
 今日では著名な人道主義的教育(学)者でこのような考え方を何の手も加えずそのままの形で支持している人を見つけようとするならひどく苦労するだろう。ルソーには、親ならみな、自分自身の子供たちのうちに発見してぞっとした、自己中心性、激しい怒り(いかり)、残忍(ざんにん)さなどは目に入らなかったようだ。さらに重要なことに、20世紀の、他にも多くの惨事(さんじ)は言うに及ば(およば)ず、第二次世界大戦に直面したとき、たいていの人々が、ゴールディングと同様、どんな人間でも、ある種の状況(じょうきょう)の下では、自分以外の人間に対して残虐(ざんぎゃく)行為(こうい)をすることが可能だということを認めざるをえなかったのである。こういうつらい教訓を考慮(こうりょ)すると、ルソー主義の人間の本性に対するとらえ方にも修正が加わり、人間は生まれながらにして無垢だというわけではないが、それでもやはり善良で気高くなれる素質は備えているのだということになる。
 この控え目(ひかえめ)な表現に代わった人道主義ですら、この方面で全く逆の立場をとる人々にとっては好ましくないもので、そのような人たちは、ゴールディングや中世キリスト教徒と同様、人間の本性は悪である、あるいは少なくとも道徳など気にもかけていないと信じている。こう確信している人々は、国内の子供たちの大部分が社会に見捨てられてきた――言い換えれ(いいかえれ)ば、事実上、家庭や学校、教会、隣人(りんじん)などから教化的影響(えいきょう)を受けるどころか、大部分が都会の孤島(ことう)で難破してしまったようなものだと考えている。その議論によれば、もし、これら、親から見放された子供たちが無理にでもある特定の道徳律を身につけるようにしむけられたのであれば、彼ら(かれら)のうちにひそむ獣性(じゅうせい)が外に出て、社会を蝕むことなどなかったろうに、ということになるのだ。
 これは今日では支配的な受け止め方である。教育者、公務員、刑事(けいじ)裁判の制度を代表する人たちで、今のアメリカの若者が堕落(だらく)しているのは大人たちが道徳教育をする能力がなかったか、したがらなかったか、そのいずれかの結果であると断言しないような人はごく稀である。元文部次官のゲーリー=バウアーは次のように語っている。
 
我が国の学校に広まっている、アルコ一ル中毒、麻薬(まやく)の乱用、暴力行為(こうい)、性的な乱れ、ごく普通(ふつう)の礼儀(れいぎ)作法の全くの欠如(けつじょ)といった数多くの問題は、アメリカの教育現場における道徳教育のゆゆしき状況(じょうきょう)と明らかに関係がある。

このイデオロギーによると、子供たちには本来、正しい道徳的判断を下す能力はないのだから、バウアーのあげた一連の社会悪を解決するには、元文部長官のウィリアム=べネットの考えでは、教化しかないというのだ。これは、親や教師や他にもその道の権威(けんい)が伝えてきた規律を取り入れるということであった。最近、ジョージ=ブッシュ大統領に任命され、不法な麻薬(まやく)使用に対する国をあげての戦いの先頭に立つことになったべネットは、同じ議論を繰り返し(くりかえし)ている。すなわち、例えば麻薬(まやく)問題などは、大人の側が、若者たちに正しい道徳律を教え込む(こむ)ことができなかったために起きているというのである。
 子供たちの道徳心の発達に対する人々の関心が高まり、政策を作る側もそれを重視するのであれば、バウアーやべネットやその他、いわゆる伝統主義者たちのように公の論争を左右する人たちが、このテーマに関する科学的研究を顧み(かえりみ)ないでいるのは残念なことである。新聞や雑誌に出ている話からはとても推し測れないであろうが、発達心理学者たちは、1960年代以降、子供たちが道徳的・社会的価値の基準を身につけていく過程に関して、ある程度の同意に達してきた。このことが示されているのは、ジェローム=ケーガンとシャロン=ラムが編集し、道徳心の発達に関するあらゆる科学的理論を検証した、『年少児における道徳心のあらわれ』や、ウィリアム=デーモンによる、社会科学者と政策を作る側とのギャップを埋める(うめる)ことをねらった、『道徳的子供――子供たちの自然な道徳的成長の育成』などである。これらの本から浮かび(うかび)あがってくる人間の本性についての描写(びょうしゃ)は、ゴールディングの自制心を失った男生徒たちの物語ほど悲観的なものではないが、それでも、気高く無垢なる子供の正しい育て方についてルソーが抱い(だい)た幻想(げんそう)よりは現実的である。悪魔(あくま)でも天使でもなく、人は何ものにもまして社会的動物――善悪両方の素性をもつ生き物であって、その道徳心の発達は、自分たちの文化に対してと同様、自身の体質や気質に負うところも大きいのだ。 ( n )
 解説:人間は、文化=記号=言葉によって混沌とした世界に秩序(ちつじょ)を与える(あたえる)という話です。だから逆に文化の中に組み入れられていない周辺部については、禁忌(きんき)感情が働くと述べられています。これを現代の社会の問題として考えてみましょう。ある一つの文化に属することで世界の見方に枠組み(わくぐみ)を与え(あたえ)られ、異なる文化の見方を許容できなくなるというようなところが問題点として考えられそうです。いつも同じ黒髪(くろかみ)、肌色(はだいろ)の日本人を見ていると、肌(はだ)の色が違っ(ちがっ)たり髪(かみ)の色が違っ(ちがっ)たりする人を見るとき、一種の忌避(きひ)感情が働きます。「おまえ、茶髪(ちゃぱつ)なんてやめろよなあ」という具合に。身近な例を通して考えてみましょう。 ( n )
 第一段落は要約と意見(当為(とうい)の主題)。「人間は文化を通して世界を見ている。自分の狭い(せまい)世界を基準として他の文化を忌避(きひ)するべきではない。」n n 第二段落は、その方法と体験実例。「そのための方法としては、第一に、自分の理解しがたいものに対してもできるだけ理解しようと努めることだ。私も、昔は茶髪(ちゃぱつ)やピアスに抵抗(ていこう)があったが、今は、髪(かみ)が泥(どろ)で固めてあって、鼻の穴に骨をさして歩いている人を見ても平気になった。」n n 第三段落は、方法2と歴史実例。「また、第二の方法としては、学校などで子供のころから幅広い(はばひろい)体験をさせ、異文化と接触(せっしょく)する機会を持たせることである。歴史上の例を見ると、明治維新(めいじいしん)は、日本人が民族として急激な異文化体験をした時代である。しかし、このことによって、従来の日本人の枠(わく)を打ち破るような人物が多数登場した。」n n 第四段落は、反対理解と自作名言。「確かに、自分の文化の枠組み(わくぐみ)で物事を見ることは、物の見方の効率化につながる。犬はワンワンと鳴くという共通の文化があるから話もスムーズに進む。小学生がダリのような絵をかき出したら、だりでも危ないと思うだろう。しかし……。文化は、認識の幅(はば)を狭める(せばめる)枠組み(わくぐみ)ではなく、幅(はば)を広める枠組み(わくぐみ)でなければならない。」n n ( n )
 体験実例は海外旅行などの思い出におおいのではないでしょうか。
 私は韓国(かんこく)に行ったとき仰天(ぎょうてん)しました。男と男が手をつないで歩いている! 腕(うで)を組んで歩いている! 女もしかり。同じ布団で寝る(ねる)のも違和感(いわかん)ないそうです。下宿は独り住まいではなく3人くらいでアパートを借りるのが多いのです。みんなで外食するときはみんな同じメニューを注文します。なぜなら早く食べたいから(笑)。
 韓国(かんこく)の食堂やカフェでは食べ物の持ち込み(もちこみ)ができるのです。長く住んでいるとそれに慣れてしまって、日本に帰国したとき、レストランに他の店のケーキを持ち込ん(もちこん)で食べようとひろげたら、マスターに怒鳴ら(どなら)れ追い出されました。ちなみに私じゃありませんよ。
 オーストラリアで夏に生活したとき、蚊(か)がぶんぶん飛んでいるのに、網戸(あみど)なんてものはなく、蚊取り線香(かとりせんこう)なんてものもなく、それなのに窓を開け放して寝る(ねる)のです。これは仰天(ぎょうてん)というか、困り果てました。
 あちらは草地にヒルがわんさかいるのですが、これも足にいっぱいヒルをひっつけてても平気でいます。
 そして学校のトイレは便座がない! 校舎のニ階や三階の外廊下(ろうか)にはフェンスがない! さすがにこれは恐ろしかっ(おそろしかっ)た‥‥。
 こうしていろいろ思い返してみると、体験実例は掃い(はい)て捨てるほどありますね。
 でもこういった生活習慣あるいは文化の違い(ちがい)というのは、情報流通の国際化とともに均一化されている面もあります。日本がその好例なのではないでしょうか。
 そういった面から感想文を書いてみることも面白い内容になりますね。 ( b )