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題名:ノンフィクションの書き手は(感)
感想文の課題です。課題の長文を読んで感想文を書いてください。
課題の長文
【一番目の長文は暗唱用の長文で、二番目の長文は課題の長文です。】
【1】単調で荒涼な砂漠の国には一神教が生まれると言った人があった。日本のような多彩にして変幻きわまりなき自然をもつ国で八百万の神々が生まれ崇拝され続けて来たのは当然のことであろう。山も川も木も一つ一つが神であり人でもあるのである。【2】それをあがめそれに従うことによってのみ生活生命が保証されるからである。また一方地形の影響で住民の定住性土着性が決定された結果は至るところの集落に鎮守の社を建てさせた。これも日本の特色である。
【3】仏教が遠い土地から移植されてそれが土着し発育し持続したのはやはりその教義の含有するいろいろの因子が日本の風土に適応したためでなければなるまい。思うに仏教の根底にある無常観が日本人のおのずからな自然観と相調和するところのあるのもその一つの因子ではないかと思うのである。【4】鴨長明の方丈記を引用するまでもなく地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑にしみ渡っているからである。
【5】日本において科学の発達がおくれた理由はいろいろあるであろうが、一つにはやはり日本人の以上述べきたったような自然観の特異性に連関しているのではないかと思われる。雨のない砂漠の国では天文学は発達しやすいが多雨の国ではそれが妨げられたということも考えられる。【6】前にも述べたように自然の恵みが乏しい代わりに自然の暴威のゆるやかな国では自然を制御しようとする欲望が起こりやすいということも考えられる。全く予測し難い地震台風に鞭打たれつづけている日本人はそれら現象の原因を探究するよりも、それらの災害を軽減し回避する具体的方策の研究にその知恵を傾けたもののように思われる。【7】おそらく日本の自然は西洋流の分析的科学の生まれるためにはあまりに多彩であまりに無常であったかもしれないのである。∵
【8】現在の意味での科学は存在しなかったとしても祖先から日本人の日常における自然との交渉は今の科学の目から見ても非常に合理的なものであるという事は、たとえば日本人の衣食住について前条で例示したようなものである。その合理性を「発見」し「証明」する役目が将来の科学者に残された仕事の分野ではないかという気もするのである。
【9】ともかくも日本で分析科学が発達しなかったのはやはり環境の支配によるものであって、日本人の頭脳の低級なためではないということはたしかであろうと思う。その証拠には日本古来の知恵を無視した科学が大恥をかいた例は数えれば数え切れないほどあるのである。【0】
「日本人の自然観」(寺田寅彦)∵
【1】ノンフィクションの書き手は、在るものを映そうとし、フィクションの書き手は、在らしめるために創ろうとする。
たとえば、先にあげた「『事実』の呪縛を超えるもの」という座談会の中で、小説家である加賀乙彦は、実在の人物をモデルにした小説『錨のない船』を書くという体験に即して、次のように語っている。
【2】『……最初に収集した事実を一応ふまえて、それほど逸脱したことは書けないけれども、登場人物の心理とか家族の関係とか死んだ様子とかってのは、全部事実と違う完全なフィクションになってきたんですね。その方が実在の来栖良さんという青年の真実に近いのだろうということなんです。(中略)【3】昔、アンドレ・ジイドが「フィクションの方が真実で、ノンフィクションは真実から遠ざかるだけだ」と言ってますけど、僕も同じような考えで、フィクションが多ければ多いほど真実に近づいていくっていう経験を今度しましたね』
【4】ここには、フィクションの書き手の、創るということの絶大な自信と、あえていえば傲りが、驚くほど率直に表明されている。確かに創るということを認めるなら話は簡単だ。【5】他人というものはついに、理解することはできないのではないか、という苛立ちからも脱け出せ、事実の核に到達できないのではないかという絶望からも解き放たれる。自分の身の丈に合った「真実」とやらにも接近できるだろう。【6】しかし、想像力による事実の改変や細部の補強という方法は、記録というものには限界があるのではないかという問いへの答にはなりえない。記録、ここではノンフィクションだが、それは創らぬという約束の上に成り立っているジャンルの文章なのだ。それをスポーツにおけるルールと考えてもよい。【7】サッカーが手を使わないことによってラグビーと異なる緊張感を生み出すように、ノンフィクションも恣意的に想像力を行使しないということで『在らしめる』という闘いを免除され、『在る』ということによって支えられている力を付与されているのだ。
【8】ここまできて、ようやくノンフィクションには限界があるのではないかという問いにまとわりついている霧がうっすらとだが晴れ∵ていくように感じられる。つまり、限界があるのは当然ではないか、という地点に辿りつくのである。【9】そこに一定のルールがある以上、可能なことには限りがある。全能の文章のスタイルといったものを求めることが無理なのだ。とすれば、最も大事なことは、ノンフィクションには何が可能で何が不可能かの境界を見極めることのはずである。【0】
ノンフィクションのライターにできることは、事実の断片を収集することでしかない。加賀乙彦のいう「真実」とやらに到達することは不可能であり、事実の核といったものを掘り出すこともできない。だが、それでどうしていけないことがあろう。断片と断片のあいだはついに埋まらない。わかることもあり、わからないこともある。それをそのまま提出してどうしていけないか。いや、むしろその方が、『在る』ものとしての事実の質感や大きさをくっきりと伝えることになるのではないか。事実の断片を断片として提出する。しかし、その断片の選び方、提出の仕方に、書き手の「人間」が混じり合ってしまわないか、という問いかけがあった。それに対しても、その通りと認めることでしか答は見つからない。「人間」の混入は不可避である。それはこの世に万人が認める唯一無二の絶対的な事実があるのではなく、個人にとっての事実しかないという立場を承認することでもある。つまり、ノンフィクションとは、事実の断片による、事実に関するひとつの仮説にすぎないのだ。
(沢木耕太郎の文章による)
項目表
項目表を参考にして、作文・感想文を書いてください。
項目の苗 小1から楽しく書ける。作文、読解、国語の通信教育。Online作文教室 言葉の森
項目表 ヤマブキ の苗 中2年 4~6月
目標:二つの異なる意見を比較して考える書き方を身につける
★重要・評価あり ◎重要・評価なし ○普通・評価なし 段落は大体の目安です。
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課題のヒント
日本は第二次世界大戦の後にアメリカの学校制度に従ったので、アメリカと日本の学校制度はほとんど同じである。しかしながら、日本の学生の学生時代の過ごし方は、特に高校時代において、アメリカの学生の過ごし方とは異なる。
この違いを引き起こす一つのものは入学試験に関する方策である。入学試験は単科大学または総合大学に入るために学生が受けるテストだ。よい仕事を得るために必要な大学教育を受けようとする日本の高校生は、大学に入る前に難しい入学試験を受けなければならない。これらの試験はかなり深さのある三、四教科にわたる。日本の学生がこれらのテストを受けるのに対し、アメリカの学生は入学試験を受けることは通常要求されない。高校で高い成績を取っていない学生でさえ、大学に行く機会を得ており、彼らが教育に値することを社会に示している。
日本とアメリカの高校生の、学校から離れた時間の過ごし方には、面白い差異がある。非常に多くの場合、日本の学生にとって、入学試験の準備をするためには、学校で勉強するだけでは十分でない。この問題を解決するために、多くの民間の特別な学校がある。そこで、入学試験準備のためのクラスが用意されている。したがって、学生がよい総合大学か単科大学に入りたければ、彼は週末に映画に行くことさえできない。試験のために終始勉強することは時に高校生活を不幸なものとする。他方、アメリカの学生は、通常、高校で、あらゆる種類の余分な活動を楽しむ時間がある。彼らはスポーツ、ダンス、音楽、演劇あるいはただ友達といっしょに過ごすことを楽しむ。アメリカの高校生は、実際に彼らの生活を楽しんでいるように見える。しかし、これは高校生にとって最良の過ごし方だろうか。
どちらのシステムも理想的ではない。日本には大学入学制度に関して大きな問題があり、ほとんどの学生はそれに対して強い嫌悪感を抱いている。アメリカの学校制度の問題は、多分、学生が高校時代にあまりにも多くの自由を持ち過ぎるということである。彼らは、常に、途中のどこかで成功するための別のチャンスがあると考えるので、一生懸命努力しない学生もいるかもしれない。 ( n )
内容:フィクションの書き手は、「真実に近づくために創作する」と言う。しかし、ノンフィクションは、創作しないという約束の上に成り立っている。ノンフィクションのライターにできることは、事実の断片を収集することである。ノンフィクションとは、事実の断片による、事実に関するひとつの仮説である。
解説:事実をありのままに伝えるノンフィクションと、真実により近づくために創作するフィクションのそれぞれの役割を考えてみましょう。
昔、ある新聞カメラマンが、沖縄のサンゴ礁がダイバーたちによって荒らされているという報道をするために、自分でわざわざサンゴに落書きをしてそれを報道したことがありました。これは単なるウソの報道とも言えますが、カメラマンの意識の中には、「真実に近づくためには、多少の脚色も必要」という考えがあったのでしょう。もし、これがウソだとわからなければ、サンゴ礁を守ろうという大きな世論が作られたかもしれません。しかし、事実に基づかない報道で世論を形成することが、果たして本当に望ましいことだったのでしょうか。
「嘘も方便」ということわざがありますが、このことわざの中には、相手に対する思いやりという真実があれば、嘘をつくこともやむをえない、という考え方があります。二つの意見を比較して、総合化してまとめてみましょう。 ( n )
第一段落は、長文の要約を書きます。150文字程度で考えましょう。
第二段落では、意見の第一として意見Aを書きます。「事実をありのままに伝えることは大切だ。」という意見を出しましょう。報道の場では、真実か否かということが大切になってきます。情報の開示といった言葉もよく耳にしますね。しかし、たとえ「百聞は一見にしかず」といわれる映像のメディアでも、どこをどれだけどう映すかによって、真実と離れないとも限りません。写真で見たときと実際の人物がぜんぜん違ってたりして、びっくり(がっくり?)することもありますね。そのくらい、難しい問題です、といった体験をあげよう。
第三段落では、意見の第二として、反対の立場の意見Bを書きます。「創作を加えてより真実に近づくという考え方もある。」言いたいことをより強く相手に伝えるためには、多少の表現の付け足しはあっていいでしょう。みなさんも、作文に書くとき、気持ちの表現の部分で創作はありますね。江戸時代、町人の心中事件やあだ討ちを題材にした浮世草子なるよみものや、劇がもてはやされました。人々は、実際にあった悲恋やあだ討ちをさらに誇張した作品でこそ、涙を流して共感したのです。「赤穂浪士」は今でも名作です。
第四段落では、いままでにあげた二つの意見それぞれに理解を示しながら、さらに上の発想Cをしてまとめていきます。「大事なことはAかBかではなくCである。」としていくのです。これを「総合化のまとめ」といいます。
確かに、真実をありのままに伝えることも、創作を加えてより真実に近づく方法もどちらも大切だ。しかしもっと大事なことは「カメラマンは、レンズのほこりを払うまえに目のほこりを払わねばならない。」という言葉があるように、相手に伝えるという行為に責任を持っていくことである。 ( k )
第3段落、もう一つの意見を、「しかし、時と場合によっては、多少の脚色が許される場合もある。」とすることもできます。この場合の実例。
たとえば、余命幾ばくもない重い病気の時、それをそのまま患者に伝えることは果たしてよいことでしょうか? もちろんそれでよりよく余生を全うすることができる人もいるでしょう。しかし、人によっては、その事実に耐えられないかも。もちろんそれはケース・バイ・ケースということになるでしょう。
O・ヘンリーの有名な小説、『最後の一葉』も使えそうです。……窓から見えるツタの葉が全て落ちたら、自分も死ぬと思い込んでいる病気の女性のために、老画家が生涯の最後に残した絵(偽物の葉)だった。
時に創作は、実物よりも力を持ちます。 ( h )
第一段落は、課題文の要約、又は、身近な実例。
第二段落は、意見Aと実例。「ノンフィクションで事実をありのままに伝えることは大切だ。例えば、先日、友達が『すごく大きい魚をつった』と両手を広げて言ってきた。『え? そんなに大きいの』と聞くと、『いや、これぐらいだったかな』と、だんだん手の幅が狭くなっていき、最終的に15センチぐらいの魚だとわかったことがある。そのとき、私は……。」
第三段落は、意見Bと実例。「しかし、フィクションで創作することが大切なこともある。例えば、昔、『走れメロス』という話を読んだことがある。これは、もちろん実際にあった話ではなく、作者が作ったものだ。しかし、この話によって、私は友情というものについて深く考えさせられた。つまり、……。」
第四段落は、総合化のまとめ。「だから、大事なことは、ノンフィクションがいいかフィクションがいいかということではない。問題はどちらの方法がいいかというところにあるのではなく、何を伝えたいのかという目的である。その目的によって方法もまた異なってくるのである。」 ( n )
山田太一さんの「生身の他者や目の前の現実では人間のほんとうの姿が描けないから、フィクションがあるんです」という言葉は、ノンフィクションの限界を示していると言えるでしょう。フィクションでなければ伝わらない真実もありますね。 ( j )
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