ヒイラギ の山 8 月 3 週 (5)
★ユーモアについて、話が(感)   池新  
 【1】ユーモアについて、話がしたくなりました。
 第二次大戦の時、イギリスの主要都市は、ドイツ空軍の激しい爆撃にさらされました。特にロンドンは熾烈でした。【2】この時、建物を大破されたロンドンのあるデパートが、
「平常通り営業。本日より入口を拡張しました」
というカンバンを出しました。よく知られているエピソードです。
 先日、イギリス人がユーモアについて書いてあるものを読んだらこうありました。
【3】「私たちイギリス人は、『ユーモアのセンス』というものには特別のプライドを持っているし、また、それについて敏感である。たとえばイギリス人に向かってモラルがないとか、仕事ができないと言ってもおこりはしない。【4】自分には音楽がわからない、と自慢する者もいる。しかしイギリス人にユーモアのセンスが無いと言ったらぶんなぐられるはずだ。他国では、人の悪口を言うとき、ばか、臆病者、極悪人などと呼ぶが、イギリスでは『ユーモアのセンスが無いね』と言うのである。【5】これは最高の侮辱となる」
 国民性のちがいと言ってしまえばそれまでですが、日本では、ユーモア感覚は、それほどまでには高く評価されていないように感じます。【6】「お互いにもっとユーモアの感覚をみがこう」というより「人間マジメに、一生懸命に働くのが一番だ」という言葉のほうが、説得力を持つのではないでしょうか。
 【7】空襲で爆破されたデパートが、「本日より入口を拡張しました」というカンバンを出すなんて不真面目だ。「空襲による被害のためお客様にご迷惑をおかけいたします」と書くべきだ。というのが真面目な人の反応でしょう。
 【8】真面目な国から真面目をひろめにやってきたような人っているものです。そういう人は、もしかしたら欠陥人間と呼んでいいかもしれません。自動車のハンドルにあそびがあるからこそ、自動車を安全に運転することができます。【9】ユーモアは命を運転して人生をわたっていくのに欠かすことのできないものです。
 と言いながら、生真面目な言い方になりますが、明治以来、日本∵の文学は喜怒哀楽の怒(ど)と哀(あい)だけに片寄り過ぎたように思います。【0】喜びや楽しみを書いたものは評価が一段低かった。近代の苦悩について書いたものが文学としては上等で、人生の深みにおもりを下ろしていると最敬礼されてきました。
 詩に限ってみても、上質の軽みに成熟を示した詩、ユーモアの詩が書かれるようになったのは戦後のことです。
 ただ、ユーモアというものは、論理で解釈できるものではなく、それを受信する感性の装置をそなえているかどうかなのですね。頭がどんなによくても、それだけではだめ。いくら知識があっても、それだけではだめだということです。
「平行な二直線が他の直線と交わってできる錯角は等しい」という定理なら、これを証明することができます。しかし、ユーモアは、たとえるなら花のかおりのようなもので、口ではうまく説明できない。
 数学なら数学、物理なら物理、こういう真面目なことというものは、一生懸命努力すれば分かります。少なくとも分かるはずです。しかし、ユーモアというものは、ユーモラスと感じるか感じないかというセンスの問題になるわけです。

 (横浜共立学園中)