ヒイラギ の山 9 月 2 週 (5)
★噴水は、飲めない水で(感)   池新  
 【1】噴水は、飲めない水である。浴びることの出来ない水である。しかも、その水はただそこを循環しているだけであるから、何ものをも潤さない。言ってみれば、何の役にも立たないものなのだ。そして、それがいい。【2】都市住民は、すべてが役に立つという環境に馴らされているから、目の前に突如として何の役にも立たないものが出現すると、それだけで文化的衝撃をうけ、深く困惑する。つまり、この困惑が新たな文化を創り出すのであり、噴水はそのためのものであろう。
 【3】現在先進諸国の各都市では、経済活動から文化活動へいそしむべく、都市とその住民に方向転換を促しつつあり、都市の各所に「何の役にも立たないもの」を出現させることで、住民に文化的衝撃を与えることが、静かに流行しはじめている。【4】ドイツのミュンヘンの街角に、コインの投入口のない自動販売機が出現したのは、まだ記憶に新しいところであろう。【5】もちろん当初ミュンヘンの住民は苛立って、その自動販売機を叩き壊したが、壊された自動販売機がまた次の日、元通り投入口のないまま立っているのを見て、やめたのである。
 【5】現在その自動販売機の周辺にはベンチが配置され、人々は噴水の周辺に群がるように、やや困惑しながらたたずんでいる。【6】もちろんミュンヘンには噴水もあり、それも住民に対して同様の効果を発揮してしかるべきなのであるが、ミュンヘンの住民は、コインの投入口のない自動販売機ほどには噴水を、「役に立たないもの」と見なさない傾向にあるようなのだ。【7】もしかしたらミュンヘンでは、噴水の水で洗濯をしてもいいことになっているのかもしれない。
 【8】パリのエッフェル塔の近くの噴水でも、この夏人々が水浴びをしていたから、間もなく彼等も、もし文化的に向上したいのなら、「もっと役に立たないもの」を、どこかに出現させなくてはいけな∵くなるであろう。【9】「金を受け取らない乞食」などというものが、どこかの街角にうずくまることになるかもしれない。
 その点、日本人はまだ大丈夫である。噴水は、依然として「役に立たないもの」であり続けており、周辺に群がる人々も、依然として「どうしていいかわからない」まま、困惑している。【0】ただし、油断は出来ない。夏の日照りが続き、恒例の水不足になると、都市によっては噴水の水を停めてしまうところがあるからである。前述したように、噴水の水というのは同じものが循環しているだけなのであるから、どんなに水不足の場合でも、停める必要はない。停めたって、水不足を補うことにはならないのだ。
 にもかかわらず停めるのは、水不足について都市住民の多くが心配しているという局面に、そぐわないと考えるからであろう。この考え方がよくない。「そぐわないからこそ噴水は噴水なのである」という視点が、ここには欠落している。「真剣に生活しているものの生活感覚を、さかなでするものであるからこそ噴水は噴水なのである」という、まさしく噴水の立脚点とでも言うべきものが、無視されている。
 つまり、各都市が水不足になる度に、我々の噴水は危機に立たされていると言っていいだろう。言うまでもなく、単に水が停められてしまうからではない。「停めなければならない」と考える人々の姿勢の中に、噴水の真に噴水たるものを否定する傾向が芽生えるからである。
 噴水に、電気仕掛けの細工をしたり、照明で色をつけたりするのもよくない。見ているものを楽しませようとする工夫であろうが、あれも、噴水の真に噴水たるものを見えにくくさせる。噴水は、ただ水を噴き上げていればいいのである。

(別役実『都市の鑑賞法』による。サレジオ学院中)