ヒイラギ の山 9 月 4 週 (5)
○日本人は笑わない   池新  
 日本人は笑わないなどと言えば、すこし大げさになりますが、少なくも、日本人は表情にとぼしい、心の中の感情を顔や動作に表さない、ということは、よく言われることです。なるほど言われてみれば、そのとおりです。日本人はいつもお能の面のように、表情のない顔をしている、と言った人もいます。
 また日本人は戦争が好きだ、命を捨てることをなんとも思っていない、ということも、世界中で評判になっています。そして古くは、ハラキリ、近ごろでは、カミカゼというような日本語が、ひろく外国にまで伝えられているほどです。(中略)
 あまりありがたくない評判ばかりならべましたが、実はうれしい評判だってあるのです。たとえば、日本人は勤勉だ、朝早くから夜おそくまでよく働く、ともいわれています。また、日本人はとてもきれい好きだとか、がまんづよい、どんな苦しいことでも、歯をくいしばってよくがまんするとか、日本人は手先が器用で、りっぱな美しいものを生み出すとか、いろいろなことをいわれているのです。それがわたしたちにとって、ほんとうによろこんでいいことなのかどうかということは、よく判断してみなくてはなりません。しかし世界の人たちの目には、日本人がそういう姿で、うつっているのです。
 日本の文化について、ある外国人が、次のように書いているのを読んだことがあります。
 日本は二階建ての家で、二階には西洋式の生活や風俗や文化が、なにからなにまでそろっている。また一階にはむかしながらの生活や風俗、日本式の文化がそのまま残っている。しかし、ふしぎなことは、その一階と二階とを結ぶ階段がみあたらないことである。――と、そういうたとえを引いて日本の文化の姿を批評しているのです。このたとえも、たしかにおもしろいと思います。わたしたちの生活のまわりを見渡しても、たとえば洋服と和服(着物)、靴とげた、いすの生活と畳の暮らし、洋食と日本料理、西洋画と日本画、西洋音楽と日本音楽、――といったように、一方では日本にむかしから伝わっているものがよろこばれています。町を歩いてみても、ヨーロッパやアメリカの町にくらべて少しもおとらない、りっぱなビルディングが立ちならび、電車や自動車がめまぐるしく走っている。ところが、その町の中にも、のれんをかけ、店さきに畳∵をしいた、むかしふうのお店があるし、白壁の土蔵も見られるし、また神社の鳥居がたっていたり、お寺のあたりからお線香の煙りがにおってきたりする。きれいな訪問着に着飾ったむすめさんが、デラックスな自動車から降りても、わたしたちはあたりまえのこととしてふしぎに思いませんが、外国人の目から見ると、ずいぶんめずらしいことなのでしょう。それと同じことで、よくおすし屋や、おそば屋などの店さきに、テレビが置いてあって、そのそばに、酉の市で買ってきた大きなくまでが掛かっていたりする、そんな風景も、外国人にはふしぎでたまらないようです。
 一九五七年に日本を訪れたソビエトの作家エレンブルグは、次のように書いています。
「日本は、外から来るものをおどろかせる。最初にめにうつるすべてのものが、ひどく矛盾しているように思われる。電化された汽車、いすの背の角度を自由に調節できる、乗り心地のよい車室、そこには食堂もついている。給仕のむすめが香(かおり)の高いコーヒーを運んでくれる。着物姿のふたりの日本のむすめが手文庫に似た小さな箱を開けて、生魚やほした昆布をつめ合わせたお米の弁当を食べている。食事がおわると、本をとり出す。ひとりはサルトル(フランスの作家)の小説を手にしているし、もうひとりは家政の教科書を読んでいる。こんな光景を見ていると、自分がいったい世界のどこにいるのか、アジアにいるのか、ヨーロッパにいるのか、アメリカにいるのか、わからなくなる。しかも古い時代、新しい時代、さまざまな世紀がからみ合っているのだ。
 日本では、どの日本人も一日のうち何時間はヨーロッパ的な、またはアメリカ的な生活を送り、また何時間かはむかしながらの日本の生活を送っている。日本人のなかには、たがいに異なる二つの世界がいっしょに存在している。」
 わたしたちは日ごろ見なれていて、なんとも思わないことが、外国人の目にはこのようにうつっているのです。

 (岡田章雄「日本人のこころ」)