ヒイラギ2 の山 9 月 3 週 (5)
★実は私にもまったく同じ経験が(感)   池新  
 【1】実は私にもまったく同じ経験があったのである。それは四国の山々をヘリコプターで視察したときのことであった。四国は日本有数の地すべり地帯である。【2】吉野川の上流や仁淀川の流域など、近寄ることもむつかしいような山崩れ地帯が至るところにあって、しばしば大水害を起こしている。【3】そうした自然の脅威とたたかいながら過疎の山村の人たちが、治山、砂防にとり組んでいる様子を空から調査する、二日間のフライトであったが、その帰りのことであった。【4】四月末であった。ヘリコプターが山の斜面にそって高度を下げ、高知の空港へ向かっている。そのとき眼下に広がって見えたのは、山の斜面も平野も波打ちぎわに至るまで、一面の水、水、水。折から午前の太陽を反射して、大地はことごとく鏡を張ったようであった。【5】土佐特有のこの美しい風景は空からでなくとも望めるので、是非皆さんにもおすすめしたいが、以来私は以前にも増して、「水田はダム」との確信をもつようになった。以前にも増してお米の大切さを訴えるようになった。【6】テレビのそのディレクターも私も、「水」という一点に視点をあわせてみれば、はたと思い当る風景は、同じだったのである。
 【7】ところでその水田地帯を歩くばあい、私は次のような見かたをする。まず用水の施設を見る。かつてのあの「ふるさとの小川」ののどかな風景は、いまではなくなってしまったけれど、ともかくも用水の水路や堰など水の施設を見る。【8】水路が放置され、雑草が茂っていたり、ふちが欠けていたり、水面がゴミだらけだったりすると、「ああ、ここの農民はやる気がないな」と悲しくなり、逆に水路の手入れが行きとどいていれば、「この困難な時代に、がんばってるなあ」と、うれしくなる。【9】日本の農業と水とはまさにそうした関係にある。
 同じようにして山を見るばあいには、つぎのように見る。金色の稲穂波うつその水田風景が、平野から山すそへ、沢あいの段々畑へとはい上がっているようなばあいには、ひょいと上を見れば山もまた、まがりなりにも森林が守られている。【0】その逆に、昔の谷地田∵が放置され、雑草におおわれているようなばあいには、ひょいと山を見上げれば、山もまた放置され、荒れている。日本の山は米が作っているからである。
 その理由はこうである。日本列島の森林を支えている林業。その林業は独立しては成り立ちにくい産業である。自分の植えた木は自分の生きている間は伐れず、孫子の代でなければ収入にならないからだ。山村の人たちは、沢あいの段々畑の、その農作業の合間を見て山に入った。炭焼きも植林も農業と一体であった。山村で農業がやって行けないようで、どうして林業がやって行けるだろう。それゆえ私は常にこういいつづけてきたものであった。日本の森林は米のもと、水も土も作ってきた。でもその森林を作ったのは米であった、と。
 いま、緑、緑と世間も専門家もかけ声ばかりはにぎやかである。けれども日本の農業をどの方向にもっていくべきかという、そんなところにまで眼をすえて、緑を語ろうとする者は残念ながら、いない。せめて読者の皆さんだけは、風景を見る眼が変わってきて下さると、私は思っている。