マキ の山 5 月 3 週 (5)
★話し上手の人がいます(感)   池新  
 【1】話し上手の人がいます。しかし、その人をおしゃべりとは呼ばないでしょう。そのことを私なりに考えてみますと、饒舌の人は、とかく「間(ま)」をとることに気が回らなかったり、「間」の必要を感じていない場合が多いのに対して、話し上手とよばれる人は、意識して、あるいは無意識のうちに、うまく「間」をとり入れている違いがあるように思います。
 【2】「旅は道づれ」と言いながら、おしゃべりの人といっしょの長旅には疲れるという人は少なくないでしょう。
 また、相手とのあいだの沈黙の時間に耐えがたくて、「サーヴィス」の気持ちから何とかおしゃべりして「間を持たせる」というときも確かにあります。
 【3】相手が何と思おうとわたしゃ知らぬとばかり構えて口を閉じていられる人はいいのですけれど、心遣いがこまやかであると、とかくこういう場合、口数が多くなります。
 【4】しかし、困るのは、「サーヴィス」のつもりがいつのまにか自己弁護や自己顕示になり、果ては自己陶酔になっているのにも気づかずという場合です。
 【5】いかなる名言、名文句も、同類のものがただすきまもなく積み重ねられるだけでは効果乏しく、文章の力みも、ただそればかりでは弱みに転じてしまうのは苦い教えです。
 【6】適宜、風を吹かせながらの饒舌であれば、聞き逃されることも少なく、風のあいだに相手が連想し想像し思考する余裕を与えておいて、更にたたみかけるのもいいでしょう。【7】風も通さない饒舌は、聞いているほうも苦しくなり、終わった時には、さて、何を聞いたのかということにもなりかねません。
 【8】余韻とか余情、ふくみ、それらはすべて、「間」のいかし方にかかわっているように思われます。思わせぶりな「間」は、いい余韻にも余情にもならないでしょう。とすると、自然に「間」を必要とするのは、必要とするだけの実質をそなえているもの、ということになるのでしょうか。
 【9】荻須高徳(たかのり)のパリの風景画で、忘れられない油彩があります。号数を正確には言えません。畳三分の一帖くらいと思ってくださ∵い。空も建物も道もうす暗いパリの町角。ただ一点、遠景の塔らしきものに朱が入っていて、そこに向かって画面が収斂されていくのです。
 「間」のことを思う時に、私はよくこの朱色を見ています。【0】

(竹西寛子『国語の時間』による)
饒舌…多弁なこと。おしゃべり。
自己陶酔…自分自身にうっとりすること。
適宜…その場合・状況にぴったり合っていること。
荻須高徳(一九〇一〜一九八六)…洋画家。
号数…絵画作品の大きさを示すのに用いる番号。
収斂…一点に集まること。