ミズキ2 の山 7 月 2 週 (5)
★人間が他の動物と(感)   池新  
 【1】人間が他の動物と異なるところは、みずから築いた日常生活が、ときおり、なんともやりきれなくなり、無刺激、無抵抗に耐えられなくなる、という点にある。【2】それが、あるときは「不安」を呼びさまし、あるときは「反省」をもたらし、また、あるときは「おどろき」に染められる。こんなことでいいのだろうか、何の目的で自分は生きているのか、どうしてこのような毎日に安住しているのだろう、という目覚めである。
 【3】そして、そこから、その人の哲学が始まる。哲学とは、あたりまえのことが、あたりまえでなくなる瞬間に誕生するのである。
 などと言えば、「とんでもない」と反論する人がいるだろう。われわれの日常生活は、けっして安穏な砦などではない。【4】生計をたてるために精いっぱい働かなければならず、職場での気苦労、家庭にあっても子供の教育、家族間の摩擦、健康上の不安、老後の設計、近親者の死、思いがけない事故……無刺激どころか、こうしたストレスと戦うのが毎日の生活ではないか、と。
 【5】たしかに、それが生活というものであろう。だが、それだからこそ、人間はそのような日常性に取り込まれ、そこに浸りきって、それを「あたりまえ」として受け取ってしまうのだ。「雑事にとりまぎれて、つい御無沙汰いたしております」と、よく手紙に書くように。【6】そして、「これが人生さ」と達観することになる。なぜなら、どんな苦しみも、愉(たの)しみも、おしなべて人生というパターンに取り込んでしまうのが、ほかならぬ日常性だからである。苦しければ苦しいなりに。愉しければ愉しいなりに。
 【7】だが、慣れきった生活は、しだいに生きているという実感を喪失させてしまう。すべてが習慣化してしまえば、人間はただきまったレールの上を滑っていくだけである。【8】そこには何の抵抗もないが、まさにその無抵抗が倦怠をもたらし、倦怠はやがて名状しがたい不安へと、ぼくらを導いていく。そのすえにふと、あるときフランスの作家カミュの言葉を借りれば、日常性という「舞台装置が崩壊」する。彼はこう書いている。
 【9】「とりたててこともない人生の来る日も来る日も、時間がぼく∵らをいつも同じようにささえている。だが、ぼくらのほうで時間をささえなければならぬときが、いつかかならずやってくる。」
 【0】人びとは、ふだん何も深く考えることもなく、時の流れるままに日常生活を繰り返している。いうなら、時間がぼくらをささえ、ぼくらはすべてを時間にゆだねている。けれど、いつか、確実に死に向かっている自分の生を考える瞬間が到来する。カミュは、それを「実存の目覚め」という。そして、ひとたび目覚めるや、ぼくらはこんどは自分で時間をささえねばならぬようになる、というのだ。哲学はここに始まる、と言ってもよい。

(森本哲郎『ぼくの哲学日記』による)