ミズキ2 の山 7 月 3 週 (5)
★「消費は美徳」という時代が(感)   池新  
【1】「消費は美徳」という時代が戦後長く続いてきた。しかし、「すべては消耗品」「そろそろ買い換えの時期」と喧伝する声は、現在では、もはやうつろに響くだけだ。
 【2】高度経済成長のスピードにのって、便利、快適、新しい、あなただけの、といった甘い言葉がささやかれてきたが、もはやこの速度に対応できないというのが私たちの正直な感想ではないだろうか。
 【3】私たちは便利で快適なたくさんのものに囲まれている。私たちはこれらの恩恵なしには生活できないことを知っている。なぜなら生活が便利になったおかげで、自由で創造的な時間をたっぷり手に入れることができたから。【4】では、その時間を有効に使っているかといえば、そのほとんどを、私たちは生活をさらにいっそう便利で快適にする新しいものをつくるために、あるいは求めるために費やしているのだ。
 【5】ますます便利なものが生み出される現代では昨日まで便利だったものが、今日すでに不便になっているといった状況が起きている。しかし、便利を追い求めなければ不便が生まれることはない。【6】電話がなかった時代の人が電話ができて使えるようになれば大変便利だと思うだろうが、そのとき携帯電話がないからといって不便を感じることはないだろう。【7】あってあたりまえの便利にあきたりなくなると人は不便を感じるわけで、便利がひとつ増えれば、さらにいっそうの便利さを追い求めるようになる。
 【8】ところで、日本人は古来旅好きといわれる。その証拠にすばらしい紀行文を私たちは古典文学の中に数多く見つけることができる。現在の私たちは彼らに比べれば想像もできないほど便利で快適な旅を約束されている。【9】しかし、その実態はといえば、快適で便利な乗物に乗りながら、かえって旅の豊かな実感は消え失せてしまったというのが本当のところではないだろうか。確かに移動時間は短縮された。【0】しかしそのぶん余裕が生まれたかといえば、私たちは以前にもまして時間に追われた忙しい旅を強いられている。もはや自分の足でじっくり歩いていくことも、ゆったりと車窓の景色を眺めることさえなかなかしようとしない。こういうところから古典を超える紀行文が生まれるだろうか。
 人間の生活を便利に快適にするために生まれたものが、必ずしも∵自由で創造的なものを生み出すことになってはいない、これはいい例だ。
 科学技術の発達は、生活ばかりでなく、私たちの視野を大幅に拡大した。極大の世界から極小の世界まで、私たちに見えないものは何もないかのようだ。
 しかし、科学の目がよく見えるようになったことで、逆に私たちは肝心なものが見えなくなってはいないだろうか。科学者が生命体をバラバラに分解していくとき、かえって生命の本質を見失うということが起きていないだろうか。
 人はだれしも健康でありたいと願うものだ。人間の身体が遺伝子レベルで明らかになるにつれ、たいがいのことは血液検査でわかるようになってきたが、目に見える検査値が正常値の範囲内ならその人は果たして健康といいきれるだろうか。人の心のケアはどうだろう。
 逆に目に見えないことで、かえってものごとの本質が見えてくるということがある。人工衛星や天体望遠鏡が発明されていなかったころ、宇宙に関する知識は今よりずっと乏しかった。それなのに小さな庭の設えに宇宙の深淵を見ることができたのはどうしてだろうか。
 もとより、人は視覚だけに頼ってものを見ているわけではない。住み慣れた街であっても、歩き方しだいで旅にもできるのは、人が視覚だけではなく想像力を使って自らの視点を拡大したり縮小したりできるからである。
 そろそろ私たちは、すっかり萎えてしまった想像力をもう一度鍛えなおす必要がありそうだ。目に見える便利さや快適さの陰に隠れて見えなくなってしまって、心の目でしか見ることのできない真に価値あるものに光をあててみようと思う。

(『目で見るものと心で見るもの』による)