ムベ の山 11 月 3 週 (5)
★「ああすれば、こうなる」(感)   池新  
 【1】「ああすれば、こうなる」型の社会では、さらに違った側面が現れる。その一つは、時間の変質である。頭の中では、時間は過去、現在、未来に三分割される。ところが、時間直線を描けばわかるように、「現在」とはその時間直線の上の一点に過ぎない。【2】それはただちに未来から過去へと繰り込まれる、時の瞬間に過ぎないのである。もちろん常識はそうはいわない。【3】なぜなら、われわれは現在とか今とかいう表現をたえず用い、しかもその「現在」という時は、実質的な時間幅を持つことが当然の前提だからである。それなら、そのように日常的に使われる「ただいま現在」の意味とはなにか。【4】それはすなわち、「予定された未来」を指すのである。「ああすれば、こうなる」で囲い込まれた時だ、と表現してもいい。具体的にいうなら、手帳に書かれた予定である。【5】来月の三日は、会社の創立記念日だから、これこれこういうことをする。それが決まれば、その日までに「どのような準備をするか」は決まってしまう。そのためには、今日、知り合いの店に電話をしておかなければならない。【6】当日には自分は会社を休むわけにはいかない。したがって地方への出張は、その日を避けることになる。こうして、来月の三日に予定があるということは、現在をすでに強く拘束する。そうした拘束された時、それをわれわれは現在と見なすのである。
 【7】それなら未来とはなにか。本来の未来とは、なにが起こるかわからない「ああすれば、こうなる」で拘束されていない時間である。それなのに子どもが育ち始めると、母親はこの子をどの幼稚園に入れて、と考え出す。【8】その幼稚園が終わったら、どの小学校に、そのつぎにはどの中学から高校へ、どの大学のどの学部へ、と考える。こうして「漠然たる」未来は、現代社会ではただちに拘束され、急速に失われていく。【9】大人はそれでちっとも困らない。自分ではそう思っている。ただし、自分がどの段階でどれだけ年老い、どれだけの体力を失い、感覚がどれだけ鈍るか、それは手帳に書いてない。【0】さらにいつ、どういう病にかかり、その結果、いつ死ぬことになるか、やはり手帳には書いてないのである。考えてみれば、その手帳がすなわち意識である。意識という手帳は、そこに書かれていない予定を無視する。いかに無視しようと、しかし、来るべきものはかならず来る。意識はそれをできるだけ「意識しな∵い」ために、意識でないもの、具体的には自然を徹底的に排除する。人の一生でいうなら、生老病死を隠してしまう。人はいまでは病院で生まれ、いつの間にか老いて組織を「定年」となり、あるいは施設に入り、やがて病院で死ぬ。日常の世界では、そういうものは「見ない」ことになる。こうして世界はますます「ああすれば、こうなる」ものであるように「見える」ようになる。その世界では、意識がすべてとなり、時間はすべて現在化するのである。
 これをみごとな物語に描いたものが、ミヒャエル・エンデの『モモ』であることは、もはやお気づきであろう。『モモ』の主人公が自称百歳のモモという「少女」であることは、たいへん象徴的である。モモは「時間泥棒」と闘って、町の人々の幸福を取り戻そうとする。現代の東京でも、灰色の服を着て黒い鞄をもった時間泥棒たちなら、いくらでも見ることができる。かれらの最大の被害者たちは、「漠然とした、定まらない未来」だけを財産としている子どもたちである。子どもたちには地位はなく、力はなく、知識はなく、お金も名誉もない。かれらが持つものは、唯一「真の未来」だけである。現代社会はそれを惜しみなく奪う。
 政治家が国家百年を思わなくなった。医師は、もっぱら患者の検査に没頭する。それはすべてが現在化したからである。百年を思うよりも、ただいま現在の状況を徹底的に把握し、それに対して有効な手を打たなければならない。「ああすれば、こうなる」ようにしなければならないのである。医師も同じである。患者は、「先生、どうしたらいいですか」と尋ねる。だから医師はその患者の「現在の」状態を徹底的に把握しようとする。それを把握すれば、「ああすれば、こうなる」はずだということが、わかるはずだと思うからである。そうした状況を私が批判すると、若者は、こう質問する。「先生、じゃあどうしたらいいんですか」。その答があるということは、つまり「ああすれば、こうなる」が成立するということである。若者たちが、それを常識としていることが、こうした質問からよくわかるのである。
 (養老孟司『考えるヒト』による)