ムベ2 の山 11 月 2 週 (5)
★上野で絵を見たあと(感)   池新  
 【1】上野で絵を見たあと、夕方からは日比谷でチェコのヤナーチェク弦楽四重奏団の演奏会をきいた。
 モーツァルト、ドヴォルジャーク、ブラームスの順に三曲きいたが、ドヴォルジャークがいちばんであった。【2】実はこの日、はじめの二曲は二階席できいて、最後の曲を、芝居でいえばカブリツキに当たるところの招待席できく珍しい経験をした。そして、招待席と二階席とでは、どうも、音の大小ではなく、音色の質がかなり違うということに気がついた。【3】正直なところ、私には、二階の方がまとまった印象をもつことができた。一階正面の最前列に座っていると、音楽がすこし近すぎるのではないかという感じである。おそらくそれは物理的で同時にまた心理的な問題であろう。
 【4】同じ音楽でも、あるときはひどく感心し、別のときはさほどでないことがある。それと似て、ある席ではすばらしい演奏が、ほかの席では何割か割引きしなくてはならぬということがないとは言えないだろう。
 【5】芸術において、作品は必ずしも絶対ではない。時、所を超越して価値にすこしのくるいもないという芸術がないのは、どんな作品にも、それを受けとる人間の心が必要だからで、両者のふれ合うところにしか美は生まれない。
 【6】そんなことを考えるともなく考えていると、きょうめいということばが頭に浮かんだ。
 人の意見に共鳴する、などと、いまでは比喩として用いられるが、もともとは物理現象を指すことばであって、いまも物理学で共鳴という術語は生きている。
 【7】むかし中学校で共鳴の実験をしたものだ。振動数の等しい二つの音叉の一方を鳴らすと他方もつられて鳴り出す。その実験、やれと言われてやっただけで、別に不思議とも思わなかったが、いまから考えると、もったいないことをしたものだ。【8】もうすこしよく心に留めておけばよかったと悔やまれる。いまやりたくてもだいいち音叉がない。それはとにかく、比喩であることすら忘れられて使われている。
 【9】共鳴ということばを、もう一度、物理の世界へお返ししてみると、そこに、われわれの芸術的感動の原理のようなものが、チラリと姿をのぞかせるように思われる。∵
 われわれはみんな心の奥に音叉をもっている。【0】絵を見、音楽をきき、詩や小説を読む――そういう外からのいろいろの刺激は意識されない波となってこの胸中の音叉に達する。それによって、われわれは「心を動かし」、「感動し」、あるいは「心の琴線にふれた」と言うが、要するにそれは共鳴である。
 ただ、物理実験で使用する音叉には振動数がはっきりしているのに、心の琴線が共鳴をおこす振動数はまだはっきりしていない。それがとらえられれば、鑑賞が学問となるかもしれない。
 芸術的共鳴の成立する条件については何ひとつわかっていないが、鑑賞者が作品、表現にあまり接近しすぎては共鳴に不便らしいこと、その距離が美感に関係のあるらしいことなどは見当がつきそうである。ひょっとすると、共鳴によって芸術の与える感動を説明できるかもしれない、そう思ったら、自分でもおかしいくらい心が高ぶって来た。

(外山滋比古(とやましげひこ)「きょうめい」より)