ニシキギ2 の山 8 月 3 週
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○自由な題名
○楽しかったこと


★書物はいつの世にも(感)
 【1】書物はいつの世にもゆっくりと読むべきものだと私は思う。こんなにも本がたくさん出ているのに、と言うかもしれない。しかし、同じようにレコードだってたくさん出ている。【2】展覧会もいたる所で開かれている。だからといって、音楽を能率的に聴き、絵画を急いで見る人はいまい。それなのに、こと本に関する限り速読を目指すのはどういうわけなのだろう。【3】おそらく、書物というものが鑑賞するというより知識の伝達の媒体と思われているせいであろう。確かに本とレコードでは違う。本の方がはるかに多目的である。【4】鑑賞するというよりは、情報を得たいために読まれる本の方がずっと多いだろう。そんなことは十分承知の上で、なおかつ、私は遅読(ちどく)を勧める。
 【5】速く読むということは一見能率的のように思えるが、結局は損をすることになる。私も必要に迫られて急いで読まざるを得ないことがある。ところが、急いで読んだ本に限って、あとに何も残っていない。【6】そこで、もう一度読み直さなければならないことになる。そして、改めてゆっくり読み直してみると、最初に読み飛ばしたそんな読書が何の意味も持っていないどころか、まったく読み違えていたことに驚くのである。【7】こうなると、速読するよりは読まない方がましである。なぜなら、誤解は無知よりも有害だからである。
 そんなことを言っても、必要に迫られて読まなければならない場合が多いではないか、と言うかもしれない。【8】しかし、必要に迫られたらなおのことゆっくり読むべきである。必要に迫られる以上あくまで誤解は許されないからだ。【9】たとえ明日までにどうしてもこの一冊を読み上げねばならないという必要に迫られた場合でも、ゆっくりと読み、読めるところまで読んで本を閉じたらいい。その方が、いい加減に斜め読みをするよりは、はるかに得るところが大きい。
 【0】遅読(ちどく)を勧めるもう一つの理由は、いくら速く読んでみたところ∵でたかが知れているということである。どんなに速読の技術を身につけたところで、二倍のスピードで読めるものではない。仮に二倍の速度で読めたとしても、そうした速読から読み取ることができるのは、ゆっくり読んだ時の二分の一にすぎない。つまり、半分しか読み取らないのだから二倍の速さで読めるわけだ。しかも、その半分が前に述べたように誤読に陥りやすいとすれば、速読というものがいかに無意味であるかに気づくであろう。実際、本というものはそんなにたくさん読めるものではない。わずかな本しか読めないからこそ、何を読むかその選択が大切になる。つまり、ゆっくり読むことは、それだけ良書を選ばせる効果を持つのである。
 わずかな本しか読めなかったなら、それだけ視野はせまくなり、とても現代に追いついて行けないと言うかもしれない。確かにそういった不安が現代人を速読へと駆り立てている。だが、そんなことは決してない。十冊読む人よりも五冊読む人の方が視野が広く、立派な見識を身につけているというようなことはざらにあるのだ。読書の価値は何冊読んだかで決まるのではなく、どんな本をどのように読んだかで決まるのである。