グミ2 の山 12 月 1 週 (5)
★われわれが台所よりも(感)   池新  
 【1】われわれが台所よりも先に家から外に出したのが、病人の世話であり、出産であり、死であった。誕生・病気・死は、人間がもっとも自然の近くにあるわけで、「自分は生き物である、いま生きているんだ」と実感する現場でもある。【2】その重要なシーンが、病院など非日常的な空間で展開されることにより、日々の暮らしと遊離してしまっている。そして排泄物の処理もいまや水洗の普及で、家庭内から去った。そんななかで、自然との接点として家庭内に唯一残っていたのが調理である。【3】いわば人間が人間らしく生きるための最後の牙城といえる。じぶん自身の生の証を確認する場面が家の外に出たことで、生活の原点が希薄になり、現実と非現実の境界がしだいに崩れてきた。【4】そのため、じぶんの座標軸がうまく成り立たなくなったような気がする。そして、われわれの生活は無意識のうちに自然から遠ざかっている。
 それを象徴しているのが、コンビニやスーパーの食品を包む透明のラップである。【5】肉、魚、野菜などほとんどの食品が発泡スチロールの皿に載せられ、上からラップをかけられて陳列されている。じつはあれも、ナマの自然に触れたくないという現代人の潜在意識からきているのではないだろうか。【6】対象物に直接さわらないで透明の被膜ごしに触れる感覚は、人間同士でもおこなわれている。朝シャンに代表される清潔シンドロームは、他人とじかに接触するのを嫌がる若者たちが中心だった。それは透明のラップで人間の身体をすっぽり包むのと同じ感情である。【7】身体と身体をぶつけ合って相手を理解することはまれで、相手にのめり込まず、距離をおいて付き合うのがおしゃれとされてきた。じぶんの存在にラップをかけることで他人を拒絶する。そういう奇妙な生活様式が定着しつつある。
 【8】ところで、じつを申せば、わたしはコンビニという存在があまり好きではなかった。ガラス張りのコンテナといった安普請で、物も生活必需品ばかり。その名のとおり、簡便というだけ。【9】スタッフといってもプロ意識のないアルバイト店員が二、三人いるだけで、サービスもマニュアルどおりでそっけない。異様に明るいとい∵う以外は、なにか人間の安っぽさだけを見せつけられているみたい、そのうちじぶんの存在までみすぼらしくなってしまいそう……。そう思ってきた。
 【0】ところが、何度も足を運ぶうちに、コンビニのイメージが変わってきた。二十四時間営業の便利さ。それに昔のよろず屋ふうで、いざというときに必要なものが案外きちんとそろっている。それこそ香典袋もあれば、たばこやコピー機もある。屋台のような熱々のおでんもある。宅配便の受付もしてくれる。なにか今の都市生活のカタログを見ているような気分になる。こうしてコンビニはいまや、都市生活のべーシックといった存在になりつつある。市民の私室の引き出しや冷蔵庫のかわりをしているともいえる。なかでも、たいていは家から歩いて数分のところ、という利便性がいい。
 こんなことを考えていて、ふと思いついた。そう、これ、地域のセンターになりうる。デリバリー・システムにするのだ。注文は家でパソコンでおこなう。老人だって操作できるようなかんたんな機器で。すると帰宅にあわせて配達してもらえるよう手配できる。配達をかねて、独居老人のケアもできる。ついでに回覧板も回せばいい。阪神大震災のときは、社縁と地縁が行政よりもきめ細かに機能したものだが、そういう小さな「民」のネットワークのセンターや中継地になる可能性が、コンビニにはある。
 地域密集型の社会にこれほどコンビニが隣立(りんりつ)するようになったのだから、その数を生かさぬ手はない。銀行振込も納税手続きもいろいろな証明書の発行もここでできるようにしたらいい。郵便局の機能はすでに一部はたしている。相当数のお役所仕事はこれで簡素化できるようになる。学生だけでなく、住民も交替でアルバイト勤務すればいい。このようにみてくると、コンビニこそ、単身生活者がふえるこれからの都市生活、これからの市民自治にきめ細かに生かすことのできる装置ではないか。生活協同組合というものの本来の精神も、たぶんそういうものだったのだろうと思う。

(鷲田清一「コンビニという文化」より。ただし、省略と語句の変更を行なった部分がある。)