グミ2 の山 12 月 2 週 (5)
★才気煥発なツッコミの(感)   池新  
 【1】才気煥発なツッコミの話芸だけに注目が集まる傾向がはっきり現れたのが、80年代の「マンザイ」ブームである。コンビを解消して生き残ったほとんどがツッコミ役の芸人だったのは、才能の差異という以上に、おそらくはテレビという視覚優越メディアとの相性であった。【2】最近のテレビの場合、字幕でもツッコミを入れる。決めのセリフをことさら強調したり、必要ならば怒りのマークまで付けてくれたりする。マンガ表現の応用だが、自分の理解の速度や密度にあわせて享受できる印刷物の情報と違って、なんとも押しつけがましい。
 【3】かつて漫才には「ツッコミ」と「ボケ」という二つの役割があった。太夫・才蔵の万歳芸のように、阿呆役と賢い役が決まっていたという意味ではない。性格づけの芸人への固定化は、むしろ後で確立したマンネリである。【4】漫才の自由の本当の可能性は、「賢い」はずのツッコミと「あほ」なはずのボケの言っていた理屈や価値が、対話を通じて時に転換し、逆転してしまう点にこそあった。
 【5】政治や論壇の現状に適用するつもりはないが、単なるツッコミの攻守の逆転が、どっちもどっちという平板で白けた認識を、視聴者・読者に生み出してしまっている状態とはいささか異なる。【6】その種の単純な反転の貧しさは、ボケの果たすべき役割が衰弱したところに由来するのではないか。
 ボケという言葉はすでに幕末から芸の批評に使われていて、もともとは「とぼける」を下敷きにして造られたものらしい。【7】ただし、今日のように意図的にごまかして曖昧にするというのとは、ニュアンスがだいぶ違う。当時の用法に、未熟な「俄(にわか)」(狂言の一種)は、侍は侍で通し、坊主は坊主らしい事ばかり言って、「ボケル所なく」、四角四面で面白くない、とある。
 【8】今のボケが有している語感からすると想像しにくいくらい能動的な美意識で、むしろ型通りの常識を装いつつも、ぬけぬけと意外な視点を持ち出し、さもありそうな理屈の枠を意識的に外してしまう演じ方だったようだ。∵
 【9】そうだとすればボケるは、侍らしさや坊主臭さへの意図的な批評である。そして「らしさ」や「臭さ」まで表現するには、批判対象の周到な観察が不可欠である。そう考えると、悪口としてだけ使われている「平和ボケ」にも、したたかな戦略の意味を込めうるかもしれない。
 【0】いつからだろう、バラエティー番組の世界では、無邪気で無自覚で無節操な脱線を「天然ボケ」と称して、愛でるようになった。ボケということばがいかに表面的になってしまったかを、率直に物語るものだ。ボケルことが単純で無能になれば、ツッコムことが平板で一面的にならざるをえないのは、理の当然。
 テレビをはじめ映像メディアそれ自体のツッコミの手法を、批評の自覚的な対象とすべき時代である。ある時は巧妙なリピート画像で一回しか言わなかった間違いを連呼させ、ほんのわずかな表情のニュアンスを取り出して固定化して「いじる」。観衆を代表する笑い声つきというお約束の手法も、さていつ頃から、画面づくりのあたりまえの装置として動員されるようになったのか。テレビ文化の研究者も、文学や映画の作品批評に倣った番組内容論ではなく、映像操作というか「客いじり」の微細なテクノロジーの歴史を本格的に書いてくれないか。たぶん立派な権力論になると思う。

(佐藤()健二「ボケ。理屈の枠を外す力」〔『朝日新聞』二〇〇二年四月九日付〕より)