ザクロ の山 5 月 3 週 (5)
★われわれのからだは(感)   池新  
 【1】われわれのからだは、そのすべての部分がいつも同じようにはたらいているわけではない。寝ているとき、座っているとき、しゃべっているとき、歩いているときは、はたらいている神経も筋肉も同じではない。われわれは、刻一刻たえず新しい身の統合をなしとげている。【2】このたえず変化する動的な統合の複雑さには、どのような人工的システムもかなわないだろう。だがこの現実的な統合が身の統合のすべてではない。
 道を歩いている人のなかには、剣道の達人もあれば、ピアノの上手な人もあるだろう。【3】道を歩くという現実的な統合の範囲にとどまるかぎり、ふたりの身の統合の構造は似たようなものであり、からだとしては同じだ、といえるかもしれない。しかし、それがふたりの身の真の姿ではない。ふたりの身は、今は実現していないが、実現しうる潜在的な統合可能性を構造化している。【4】ひとりの身のうちには、これまでの剣の立ち合い、さらにはこれまでの剣道の歴史、剣禅一致の思想までも、肉化しているかもしれない。ピアノを弾く人は、ピアノの鍵盤を身体図式のうちに組みこみ、ピアノ曲の解釈の歴史、演奏法の伝統をも潜在的な身の統合のうちに包みこんでいる。【5】身は解剖学的構造をもった生理的身体であると同時に、文化や歴史をそのうちに沈澱させ、身の構造として構造化した文化的・歴史的身体にほかならない。つまり身体は文化を内蔵するのである。(中略)
 この内蔵化の過程というのは、連続的な過程にみえて、実はかなり不連続である。【6】スポーツでも楽器の演奏でも、あるいはもっと抽象的な学習でもよい。試みるたびにうまくなり、理解が進むのは当然として、あるとき突然身の動きが自由になり、頭が晴れる思いをすることがあるのではないだろうか。あたかもそれまで無かった網目が突然身のうちに張りめぐらされたかのように。【7】経験は身のうちに沈澱し、くりかえしは(能動的な訓練の場合はもちろん、とくに意識することなくくりかえしている場合でも)、自分では気がつかない小さな発見と創造によって、まだ不確定な網目を潜在的に身のうちに紡ぎ出しているのではないだろうか。∵
 【8】練習は、能動的に身をある方向に整除して、統合を容易にする回路を身のうちに形成する試みである。身体を動かさないイメージ練習や、イメージを積極的に浮かべて練習することが、動きを内蔵する早道であることがある。【9】これは意識的・能動的な統合である。ところが逆につぎの段階では、イメージが邪魔になる。こんどは動きによってイメージを消し、無心の状態に達することが必要になる。場合によっては、練習を休むことによって、上手くなったり、こつがつかめることさえある。【0】この場合にはたらいているのは、無意識的・受動的な統合ともいうべきものである。休んでいる間も練習された動きは、徐々に身のうちに沈澱し、動きのネットワークが受動的に構成され、あるとき突然網目がつながるのであろう。
 ところが一たん網目ができあがると、くりかえしはただの反復に陥りがちである。最も抵抗のない道がえらばれ、習慣は惰性となるだろう。しかし惰性なくりかえしは、あるとき飽和状態になる。われわれは突然惰性的生に飽きていることを発見する。
 どんな立派な計画やユートピアにたいしても、「否!」という少数者がいるというだけではなく、計画は現実化するにつれて惰性化し、それに飽きた多数者を生み出す。哲学者の故生松敬三氏の巧みな表現を借りれば「人間はユートピアにさえ飽きる存在」なのである。人間は座りつづけることもできないし、立ちつづけることもできない。すぐに惰性化する存在でありながら、惰性的でありつづけることもできない。人間は易きにつく存在だから、禁欲の時代のつぎに享楽の時代が来るのはわかりやすい道理である。面白いのは、人間は享楽にも飽きるということである。享楽の時代のつぎに禁欲の時代が来るという不思議さ――同じ状態を永くつづけることができない人間のいたたまれなさは、動かしがたくみえる生き方を転換し、不可避とみえる袋小路を打開する力さえもっている。これが惰性的=創造的な習慣的身体の逆説である。

 (市川浩の文章による)