ジンチョウゲ の山 8 月 4 週 (5)
○「カセット」というと   池新  
 「カセット」というと、いまではひとは普通カセット・テープのことを考えるだろうが、もともとは宝石などを容れる小箱、つまり「宝石箱」のことである。だから、「カセット効果」というのは、外国語や外来語をカタカナで表記することで、ことばを、中の見えない宝石箱に容れて、明確な概念や意味よりも、いかにもありがたそうにムード化して示す効果を意味している。
 しかも、それらの外国語のカタカナ表記は、多くの場合、門外漢にとっては原語を調べようにも調べられないかたちに縮約されているので、たちまち隠語と化してしまう。このような隠語たるやしばしば専門家たちの合言葉にもステータス・シンボル――これも外国語のカタカナ表記だが――にもなるのだから、手に負えないのである。原語の概念を明らかに示すためには、ときによっては、思い切って翻訳した方がいい、と思うのである。
 その点で、日頃から私が感心しているのは、現代中国語では、コンピュータのことを「電脳」、プライマリ・ケアのことを「全科医療」、ファジー工学のことを「模糊工程学」と思い切って意訳していることである。このうちコンピュータ→「電脳」は、脳機能の一部の外化を示していて的確なだけでなく、英語の「computer」やフランス語の「ordinateur」が依然として「計算機」に囚われていることを思えば、実体の表現としてすぐれている。
 プライマリ・ケア→「全科医療」となると、さらに傑作である。プライマリ・ケアのプライマリは、プライマリ・スクール(小学校)のプライマリ、「基本の」ということを表わすとともに、プライマリ・ゴール(主要目的)のプライマリ、目的のうち「第一番目に重要な」ということを表わしている。(この全科といえば、かつて小学校の全教科の参考書が『××全科』と呼ばれていたことを思い出す。)日本語ではこれまでに決まった訳語がない。「基本医療」とか「一次医療」とかという訳語はあるが、十分にその意味を表わし切っていない。∵
 もちろん、日本語の特徴は、漢字仮名――この場合には、ひらがな――まじり文からなる上に、どんな外国語・外来語でもカタカナで近似的に音写することで、自国語の構文を壊さずにそのなかに取り込めることにある。これはたいへん便利なことであり、このような日本語の持つ柔軟性は、日本の経済発展や諸外国の文化を採り入れる上で、少なからず役立っている。しかし、その反面で、日本語のなかにカタカナの外来語や外国語がとかく感覚的、気分的に安易に導入され、意味がよくわからずに感じだけで使われることに対しては、野放しにしておくべきではなかろう。
 たしかに漢字によって意訳せずにカタカナで音写しておけば、原語の持つ多義性を保存できた「気分」になれる上、新鮮な感じがするし輝いて見えることもある。だから、学術用語としてばかりでなく、広告・宣伝用語としても、新社名としても、カタカナの外国語が好んで使われるのである。この「カタカナの外国語」は、もうすでに日本語になっていると言ってもいいので、排除することなどできないが、それだけに、漢字による意訳に対するのと同じくらいの「うるさい眼」を、「カタカナの外国語」の使用法には持つべきであろう。

(中村雄二郎「インフォームド・コンセント」による)