ヌルデ の山 10 月 3 週 (5)
★あなたがたはとくと(感)   池新  
 【1】あなたがたはとくと考えたことがあるでしょうか、今も日本がすばらしい手仕事の国であることを。西洋では機械の働きがあまりにさかんで、手仕事の方はおとろえてしまいました。しかし、それにあまりかたよりすぎてはいろいろの害が現れます。【2】だから、各国とも手の技をもり返そうと努めています。なぜ機械仕事とともに手仕事が必要なのでしょうか。機械によらなければできない品物があるとともに、機械では生まれないものがかずかずあるわけです。【3】すべてを機械に任せてしまうと、第一に国民的な特色あるものがとぼしくなってきます。機械は世界のものを共通にしてしまうかたむきがあります。それは、残念なことに、機械はとかく利得のために用いられるので、できる品物がそまつになりがちです。【4】それに人間が機械に使われてしまうためか、働く人からとかくよろこびをうばってしまいます。こういうことがわざわいして、機械製品にはよいものが少なくなってきました。これらの欠点を補うためには、どうしても手仕事が守られねばなりません。【5】そのすぐれた点は多くの場合民俗的な特色がこく現れてくることと、品物がてがたく親切に作られることです。そこには自由と責任とが保たれます。そのため仕事によろこびがともなったり、また新しいものをつくる力が現れたりします。【6】だから手仕事をもっとも人間的な仕事と見てよいでしょう。ここにそのもっとも大きな特性があると思われます。
 かりにこういう人間的な働きがなくなったら、この世に美しいものは、どんなに少なくなってくるでしょう。【7】各国で機械の発達をはかるとともに手仕事を大切にするのは当然な理由があるといわねばなりません。西洋では「手で作ったもの」というとただちに「よい品」を意味するようにさえなってきました。人間の手には信らいすべき性質が宿ります。
 【8】欧米の事情にくらべますと、日本ははるかにまだ手仕事に恵まれた国なのに気づきます。各地方にはそれぞれ特色のある品物が今も手で作られつつあります。たとえば手漉きの紙や、手轆轤の焼き物などが、日本ほど今もさかんに作り続けられている国は、ほかにはまれではないかと思われます。
 【9】しかし、残念なことに日本では、かえってそういう手の技が大切なものだという反省がゆき渡っていません。それどころか手仕事∵などは時代にとり残されたものだという考えが強まってきました。そのため多くは投げやりにしてあります。【0】このままですと手仕事はだんだんおとろえて機械生産のみさかんになるときがくるでしょう。しかし、私どもは西洋でなした過失をくり返したくありません。日本の固有な美しさを守るために手仕事の歴史をさらに育てるべきだと思います。
 さて、興味深いことには、ほうぼうでめぐり合った手仕事による品物は、それがどんなに美しい場合でも、一つとして作った人の名をしるしたものはありません。時として何地方名産とか、何何堂製などとはり紙のついている場合もありますが、個人の名はどこにもしるしてありません。ところが近世の「美術品」と呼ばれているものを見ますと、どこにもみな銘が書き入れてあります。または落款がおしてあります。銘というのは作り手の名であり、落款というのはその名をしるした印形(いんぎょう)です。たとえばどんなつまらない作品にも何某(なにがし)の作ということがしるしてあります。
 ここにおもしろい対比が見られます。一方では名などしるす気持ちがなく、一方は名を書くのを忘れたことがありません。なぜこんな相違が起こるのでしょうか。要するに一方は職人が作るものであり、一方は美術家が生むものだからであるといわれます。前者は多くの人たちの作りうるものであり、後者はある個人だけが作りうる作品だからです。しかしこのことは、とかく前者をいやしみ、後者をのみ尊ぶ風習を生みました。なぜなら職人の作ったものは平凡であり、美術家の作るものは非凡であると思われるからです。どんな品物も銘がない場合に、その市価が落ちるのはつねに見られる現象です。ですがこういう見方ははたして当をえたものでしょうか。(中略)
 じつに多くの職人たちはその名をとどめずにこの世を去っていきます。しかし、かれらが親切にこしらえた品物のなかに、かれらがこの世に生きていた意味が宿ります。かれらは品物で勝負しているのです。物で残ろうとするので、名で残ろうとするのではありません。